ストラヴィンスキーの『春の祭典』は「春」とあるけど、最初は夏の構想だったらしい。これは、古代スラヴで太陽神を中心とする宗教において、生贄の儀式を伴う祭りは真夏に行われるものだったことに由来する。
画像にあるような衣装と輪舞はその伝統を受け継いでいるものの一つ。

一つ思ったのは、映画の『ミッドサマー』ってこのコンセプトと関連あったりするのかな…
あれは舞台がスウェーデンだけど、古代スラヴの発祥と言われるウクライナ・ベラルーシ・リトアニアとも (バルト海で隔たりはあるけど) 近いといえば近いような。衣装も似ている。観たいけど…観たくない… :ablobbonetremble:
画像参照元: discover.in.ua/traditions/ukra

友人とフォーレのピアノトリオの話になったので、久しぶりに聴いている。改めて、本当に美しい曲だ…
フォーレの音楽的語彙 (和声とかメロディ運びとか) って、美しいのにどこか不可解というか、非常に独特な言い回しという感じがする。
普段、和声や楽曲分析の講師として仕事していると、機能和声の理論を全部理解しないととか、どのメロディが何を象徴しているのか説明できないとという柔軟性のない思考に陥りがちだけど、そういうことじゃないのよ…とそっと肩に手を置きながら言われた気分になった。浄化されるね…
youtu.be/px59G3t-biM?si=pZRvOK

ブラームス二重協奏曲の分析続き。やっぱり第3楽章、とても精巧にできている。
「下行し続けるもの」だった主題は、最後のクライマックスで初めて上行する。
この上行の影響によって、主題は下行することを躊躇する→下行はもはやしなくなる→一気に上行して昇華、という変化を経て輝かしく曲は終わる。

この仕掛けに気づいたときのアハ体験といったらもう。 :utsukushii:
普通に聴いているだけではなかなか捉えられないし、こうして言葉にしてみても何とも無いものに見えてしまうけど、これを演奏者側が知っているか知っていないかで、表現は全く違うものになる。曲の分析とは、そのためのもの。

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引き続きブラームスの二重協奏曲分析、今度は第3楽章。

ソロ同士の関係性はほとんど第1楽章から変わっていないけど、メロディ運びが伸びやか。音楽の勢い、楽器感の細かいやりとりの面白さ、ソロの豊かな技巧的語彙がずっとある。
「良かった…ブラームスはここで枯れてなんかいなかったよ…!」という謎の気持ちになるなど…
やっぱり第1楽章はどうしちゃったんだ。何があったんだ。むしろ、第3楽章を書いているときに本当にヨアヒムとの仲が戻ったのかな。

ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲を分析中。
この第1楽章、ソロが二人もいるのになんだか物足りないなぁと思っていたのだけど、その理由がわかった。
対位法的な絡み方をしていない。対位法的というのはざっくり言うと、互いに独立したメロディが重なることで豊かな和音やリズムを作っている状態のことなのだけど、これがない。
つまり、この二人のソロ楽器は「互いに独立していない」、ほとんど常に一人のソロであるかのように書かれている。

一説では、仲違いをしてしまった二人 (ブラームスと友人ヨアヒム、またはヨアヒムとその妻という説がある) の和解を象徴しようという意図があったと言われているのだけど…
互いに境界が無くなるほどに一つになっている表し方をされていると考えると、奇妙な危うさが見えてきてしまうな。

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