美学を提唱したバウムガルテンによれば、まず「美」というのは芸術作品などような自分の外にある対象を指すのではなく、自分が対象を見たり聞いたりして認知した瞬間の感覚的認識そのものを指すものである (ゲルノート・ベーメ著『感覚学としての美学』(2005) より)。
そして、感覚的認識はほとんどの場合、認識されたものの解釈や分析によって瞬時に合理的認識に変性される。そうでなければ、おそらく危険察知などに支障を来すのだろう。

ここからは私の仮説なのだけど、芸術は感覚的認識を引き伸ばすために瞬間的な解釈を拒む曖昧さや開かれを持っているし、だからこそ芸術鑑賞は安全でなければならないのではないか。

今日は認知科学の領域から美学を取り込んで、意識や知覚とはどういうものかを考えようとする論文 Ansorge らの『Art and Perception: Using Empirical Aesthetics in Research on Consciousness (2022)』を読み進めた。
ここでの「芸術」という言葉のスコープについて、「それが芸術かそうでないかについて一般的な社会的合意が概ね取れている、文化的に派生した人工物」という説明をしていた。
それと並行して G.Minissale の『現代アートの心理学 (2013)』も読んでいるんだけど、こっちでは「芸術に関する心理学の研究の多くは、現代芸術の大部分、特にコンセプチュアルアートやアンチフォーマリズム、レディメイドを無視している」という批判が書かれている。
でも研究対象としてある程度扱いやすいものとするなら前者のように社会的合意みたいな既存の枠に頼ってスコープを制限したほうが適しているだろうし、自ら「芸術」の枠に挑戦している前衛芸術が研究でなかなか扱えないのも仕方ないよな…2022年の論文だってそうなんだもの…

ようやく進みました。
芸術という概念についてひとまずしっくりくる答えが出ました。やっとスタートライン…
note.com/maisukegawa/n/nc5fbd1

更新。芸術作品はコミュニケーションメディアなんだろうか、そもそも何らかの機能を持っているものなのかというところを探り始めています。
note.com/maisukegawa/n/ncdac7a

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