芸術と自己認識との関係についての考えが少しまとまってきたので書き出してみる。
カテゴリー化は知覚の高レベルな領域で発生する。
感覚知覚は知覚の低レベルな領域である。
低レベル知覚に意識的に戻ることができれば、過度なカテゴリー化などから離れ、最終的には自己認識の歪みなどのような精神的に毒となるものをゼロにとは言わずとも解消できる気がしている。
この「意識的に」戻るためのメディアとして、芸術作品は一つの有効打なのでは。(瞑想もおそらく同じ発想)
芸術作品がそのための十分な力を持つには、予測を裏切るとか、単純な感覚的魅力 (瞬時に感じる美しさみたいなもの) で興味を引き付ける必要がある。
ちょっとまだ想像で言っている部分が多いし、こうやって書くと割と直感的にわかるというか、あまり新規性がない内容だけど。
シベリウスのヴァイオリン協奏曲、一番の激アツポイントがヴァイオリンソロが休んだ瞬間にあるのずるくないですか!!
(唐突に大好きな #クラシック について吐き出すトゥート)
https://www.youtube.com/watch?si=1lVGJJKbqX3JJuRV&t=401&v=J0w0t4Qn6LY&feature=youtu.be
美学を提唱したバウムガルテンによれば、まず「美」というのは芸術作品などような自分の外にある対象を指すのではなく、自分が対象を見たり聞いたりして認知した瞬間の感覚的認識そのものを指すものである (ゲルノート・ベーメ著『感覚学としての美学』(2005) より)。
そして、感覚的認識はほとんどの場合、認識されたものの解釈や分析によって瞬時に合理的認識に変性される。そうでなければ、おそらく危険察知などに支障を来すのだろう。
ここからは私の仮説なのだけど、芸術は感覚的認識を引き伸ばすために瞬間的な解釈を拒む曖昧さや開かれを持っているし、だからこそ芸術鑑賞は安全でなければならないのではないか。
#読書メモ #研究日誌
社会人大学院生: サウンドプログラマ/フロントエンドエンジニア/大学非常勤講師として働く傍ら、インタラクティブアートやサウンドアートについて研究中。作品制作も細々と。