北沢 方邦著『メタファーとしての音』(1986) を読み始めた。
音が記号であるときはどういうときなのか、音の記号化に対してどういう考えが現代の潮流なのかのヒントが見えるかもしれない。
とりあえず序論のほんの数ページだけ読んでみた。
たとえ即興演奏であっても、そこに一定のルールやパターンがあるのならその音楽はすでにテクストを持っており、テクストがあるということはその音楽を構成している音は記号である、という論述であるように読み取った。
とはいえ、そういった音の記号化から脱却しようとしたはずの実験音楽についてはどう論じられているのか、そもそも論じられていないのかが気になるところ。
構造言語学がベースにあるようなので、後々その勉強もちゃんとやらないとな…
#読者メモ
北沢 方邦著『メタファーとしての音』序論読了。このペースだと一ヶ月で読み切れるか怪しいな…
本のサブタイトルにある「音楽的知」は、「音楽が持つテクストの全体性」のこと。
音楽のテクストを構成するのは、鳴らされる音そのものだけでなく、音と音との間の無音の時間、儀礼における音楽の機能、楽器の材質やそれが象徴するもののすべてを含む。
これがテクストの全体性である。
むしろ五線記譜法のような、テクストの全体性をむしろ排除し、音の形式的な (計算可能な) 部分のみを分離・固定化している西欧音楽が特異なのだ。
このことをまず理解することから出発しよう、というのがこの序論の向かっているところだと思った。
#読書メモ
北沢 方邦著『メタファーとしての音』第一章第一節、『マライタ島レーピの「雨だれ」とショパンの「雨だれ」』。
西洋音楽・言語学・近代哲学・民族音楽のどれかの前提知識がないと早速迷子になりそうな勢い。幸い自分には西洋音楽の知識はあるので、トーン・クラスターやポリフォニー、ラヴェルの「夜のガスパール」を挙げられてもすぐわかるしイメージできるけれど、逆におそらく言語学用語である論述(ディスクール)の意味論や形式的機能という言葉で躓く。ある程度は用語の解説をしている注釈があるとはいえ、ちょっと難しい。
注目すべきと思ったのは、異なる文化圏で同じ「雨だれ」というテーマを持つ音楽があって、当たり前ではあるがその作曲者と鑑賞者の立ち位置がそれぞれ異なるということ。
ショパンのほうは作曲者の個人的情念が込められており、鑑賞者はその情念に縛り付けられる。
レーピのほうはおそらく作曲者も鑑賞者も共通して、自然の音は他界からの使信であるという視点で受け取っている。
#読書メモ
(余談)
「作曲家のロゴスをはなれて」とあるけど、よく考えたらそもそも本当にそうかな…
だってそのあたりの作曲家って、シュトックハウゼン、ノーノ、ブーレーズ、クセナキスとかでしょう。ガッチガチにルーリングして、乱数によって選んだ後にしっかり取捨選択して、むしろゴリゴリに「作曲家本人だけのロゴス」盛りしてた人たちじゃないですかね。
本当に作者のロゴスから離れた音楽にしようとしたのは、やっぱりケージを始めとした実験音楽の人たちだと思うなあ。