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家族が食べられるほおずきをいただいたということで、初めて食べてみた。
プチッと心地良い歯ごたえがあり、甘酸っぱいトマトのような味がしておいしい :blobcatmeltthumb:

そんなことを言いつつ、三輪眞弘さんの「東の唄」とか「言葉の影、またはアレルヤ」とかめっちゃ好きです。

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QuizKnockのチャンネルに出ていた三輪眞弘さんも、「新しくても意味を持たなくてはならない」と言っていて、むしろ依然として現代音楽は意味に依存しているんだと思った。
「存在意義」としての「意味」はもう本当に失われていて、だからこそ外付けの意味にがんじがらめであり、それが現代音楽の生存戦略なのかもしれない。
youtu.be/gqY6Jv5h4I4?si=GPrFE0

(余談)

「作曲家のロゴスをはなれて」とあるけど、よく考えたらそもそも本当にそうかな…
だってそのあたりの作曲家って、シュトックハウゼン、ノーノ、ブーレーズ、クセナキスとかでしょう。ガッチガチにルーリングして、乱数によって選んだ後にしっかり取捨選択して、むしろゴリゴリに「作曲家本人だけのロゴス」盛りしてた人たちじゃないですかね。
本当に作者のロゴスから離れた音楽にしようとしたのは、やっぱりケージを始めとした実験音楽の人たちだと思うなあ。

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(2/n)

無意味への懐疑の根拠として著者は、「われわれは依然として《意味》を失った現代社会の、感覚的快適さにおおわれた透明なニヒリズムの囚人」であり続けてしまっていることを述べているのだけど、この一文、絶対大事な主張なのに、何のことを指しているのかあまりわからない。
おそらく「人生の意味 (=生きがい)」という使い方をするときの言葉としての「意味」を使っていて、音楽は自身の存在意義を見失った、ということかな。
そしてこの問題は偶然性の音楽でさえ解決できなかった、ということのようだ。随分悲観的に見える。

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北沢 方邦著『メタファーとしての音』結論『野生の思考の復権に向けて』。
(1/n)

この章ではまず、西欧音楽の現代までの流れを追っている。
第二次世界大戦後に西欧音楽は、トータルセリー音楽や電子計算機による音楽といった「作曲家のロゴスをはなれて自律的な小宇宙を構成」するものになり、そうなった音楽は「一次的コード」、つまり一人ひとりが元々持っている (と信じられていた) 感性によって音楽の意味を紐解くための共通言語が無い、それはつまり「意味」を失っている、と指摘されていた。
最初は数字で決まった音にもその理論によって意味づけられて決定されているのでは?と思ったけど、そうか、数学的意味みたいなものはここで言われている「意味」とは違うのか。
このあたりの論調から、著者は意味を喪失した音楽に対して批判的・懐疑的っぽいけど、私はまだ「無意味な作品」にこそ生々しい現実・現象として、それこそ意味があるって信じているのだけど。

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健診で再検査項目があったので、病院に採血しに来ている。病気に対して年々臆病がひどくなってるから緊張でうっすらお腹痛いけど、病院の方たちが皆優しくてありがたい… :ablobcatheartsqueeze:

今日は時間的余裕があったので、しっかりラズパイの勉強ができた。
GPIO の各ピンの機能、ADコンバータの機能、これらを動かすための Python スクリプトを学習。そして実際にブレッドボードにピンを差し始めるところまで進んだ。
理解の解像度が上がってきたよ。

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面白い夢を見た。
文筆家ではないごく普通の人の日記手帳 (に見える本) というのがまずあった。そしてそれを視聴者と一緒に読みながらリアクションするというライブ配信があり、私はそれを見ている、という二重構造的な夢。
日記は大学生のものらしく、「○時○分 誰々とカフェにいった」というような一行ログがただただ並んでいくだけのもの。
ところどころ「テストの結果がよくなかった」などのネガティブな出来事に、ちょっと苦し紛れの言い訳が添えられていたりして、ライブ配信はそういう部分で共感や自戒で盛り上がっていた。

ゾンビの定番は、理性を喪失して人間を食べ物と認識して襲うというものだと思うけど、それなら共食いが起こらないのはなぜなんだろうという疑問がふと。
匂いが明らかに違うだろうから、そこで判断されているのかな。それか、ゾンビ同士は仲間だと認識できるだけのホルモン機能があったりするのかな。
(単純にゲームやストーリーに共食いシステムは邪魔だからっていうのは、なんというか、野暮じゃないですか :okidukininarimashitaka: )

引き続きブラームスの二重協奏曲分析、今度は第3楽章。

ソロ同士の関係性はほとんど第1楽章から変わっていないけど、メロディ運びが伸びやか。音楽の勢い、楽器感の細かいやりとりの面白さ、ソロの豊かな技巧的語彙がずっとある。
「良かった…ブラームスはここで枯れてなんかいなかったよ…!」という謎の気持ちになるなど…
やっぱり第1楽章はどうしちゃったんだ。何があったんだ。むしろ、第3楽章を書いているときに本当にヨアヒムとの仲が戻ったのかな。

インプット不足で心の栄養が枯れ始めていたので、読書で水やりしよう。
『メタファーとしての音』読むのが止まってから、まるまる一ヶ月経っていた…本を続けて読めないがち。

一番知りたいのは、様々な音によるメタファーの例の先にある筆者の結論なので、第1章も読み切っていないけどもう結論を読んじゃおう。結論のタイトルが『野生の思考の復権にむけて』とあるので、ソンタグの反解釈とか、エーコの開かれた作品とかのような方向性の話になっていくんじゃないかと期待。

ブラームスの分析に苦戦しすぎてお昼ごはんのタイミングを逃した…

自分一人ではどう頑張っても魅力がわからない音楽はあっても、その音楽に魅力を感じている人の熱い語りはぜひ聞きたい。

ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲を分析中。
この第1楽章、ソロが二人もいるのになんだか物足りないなぁと思っていたのだけど、その理由がわかった。
対位法的な絡み方をしていない。対位法的というのはざっくり言うと、互いに独立したメロディが重なることで豊かな和音やリズムを作っている状態のことなのだけど、これがない。
つまり、この二人のソロ楽器は「互いに独立していない」、ほとんど常に一人のソロであるかのように書かれている。

一説では、仲違いをしてしまった二人 (ブラームスと友人ヨアヒム、またはヨアヒムとその妻という説がある) の和解を象徴しようという意図があったと言われているのだけど…
互いに境界が無くなるほどに一つになっている表し方をされていると考えると、奇妙な危うさが見えてきてしまうな。

聴いていてあまり魅力を感じないなぁと思う曲はあるけど、演奏する側となるとそうは言っていられない。
だからその曲をとにかく色々な側面から見る。全体の構成、メロディの作られ方、和音の選び方、作曲の経緯、作曲者の個人的な事情まで。
ただ、そこまでしても刺さるものが一向に見つからないときというのはある…
その先は、それっぽいストーリーを作り上げたり、それぞれのメロディに役割を振ったりという、やや欺瞞的な演技の領域に逃げざるを得なくなる。
そうでない境地に届いてみたいが、そのためには人生がもう一つ必要そう。

コーディング作業は時間が溶ける…本も読めていないしラズパイも触れてないけど、お仕事頑張ったので休むことを自分に許して寝ます。

キットのチュートリアルに従ってコマンドをポチポチしてたら、どうやらだいぶ情報が古いものらしく、最初にインストールしてねとあったライブラリはもう非推奨になっていたし、同機能の別のライブラリは既にデフォルトであったやつだったというオチ。:t_chomateyo:
準備のための Python や Git のインストールもディレクトリ作成も必要なかった…もしかして今のラズパイってめちゃめちゃ便利にできてる…?

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「美しく」という言葉は解釈が揺れそうな言葉だったので補足しておくと、一般的に「きれい」とは対極にあるようなものをそうでなく取り繕ったり演技したりしてほしいという意味ではなくて、たとえ醜いまま・汚らわしいまま・無秩序なままでもウッと魅力に思えてしまう瞬間が人にはあると思うから、それをそのまま表現してほしいという意味です。

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昨日はコンサート『湯浅譲二 作曲家のポートレート』に行ってました。
クセナキスの『ジョンシェ』が本っ当に良かった…
オーケストラが全体で一つの楽器に聴こえるというのは、オーケストラ楽曲の理想の一つだけど、今回初めてそれを体験できたかも。
多くの音楽に多かれ少なかれある緊張と解決、いわゆる音楽の恣意的な句読点というものが無いような曲なのだけど、それはつまり「A地点からB地点までのつなぎの音」のようなものがなく、音の動きのすべてが純粋な現象であるように振る舞うので、解釈や読み替えを必要とせずに聴くことができる。大気の流れのような物理現象を可聴化するとしたら、きっとこうなるんだと思う。

あとは個人的な趣味として、大太鼓の皮が破れんばかりの全力打撃音を聴けたという意味でも、大変満足でした :blobcatheartbongo:

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