北沢 方邦著『メタファーとしての音』結論『野生の思考の復権に向けて』。
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この章ではまず、西欧音楽の現代までの流れを追っている。
第二次世界大戦後に西欧音楽は、トータルセリー音楽や電子計算機による音楽といった「作曲家のロゴスをはなれて自律的な小宇宙を構成」するものになり、そうなった音楽は「一次的コード」、つまり一人ひとりが元々持っている (と信じられていた) 感性によって音楽の意味を紐解くための共通言語が無い、それはつまり「意味」を失っている、と指摘されていた。
最初は数字で決まった音にもその理論によって意味づけられて決定されているのでは?と思ったけど、そうか、数学的意味みたいなものはここで言われている「意味」とは違うのか。
このあたりの論調から、著者は意味を喪失した音楽に対して批判的・懐疑的っぽいけど、私はまだ「無意味な作品」にこそ生々しい現実・現象として、それこそ意味があるって信じているのだけど。
#読書メモ
健診で再検査項目があったので、病院に採血しに来ている。病気に対して年々臆病がひどくなってるから緊張でうっすらお腹痛いけど、病院の方たちが皆優しくてありがたい…
ゾンビの定番は、理性を喪失して人間を食べ物と認識して襲うというものだと思うけど、それなら共食いが起こらないのはなぜなんだろうという疑問がふと。
匂いが明らかに違うだろうから、そこで判断されているのかな。それか、ゾンビ同士は仲間だと認識できるだけのホルモン機能があったりするのかな。
(単純にゲームやストーリーに共食いシステムは邪魔だからっていうのは、なんというか、野暮じゃないですか )
#fedibird
ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲を分析中。
この第1楽章、ソロが二人もいるのになんだか物足りないなぁと思っていたのだけど、その理由がわかった。
対位法的な絡み方をしていない。対位法的というのはざっくり言うと、互いに独立したメロディが重なることで豊かな和音やリズムを作っている状態のことなのだけど、これがない。
つまり、この二人のソロ楽器は「互いに独立していない」、ほとんど常に一人のソロであるかのように書かれている。
一説では、仲違いをしてしまった二人 (ブラームスと友人ヨアヒム、またはヨアヒムとその妻という説がある) の和解を象徴しようという意図があったと言われているのだけど…
互いに境界が無くなるほどに一つになっている表し方をされていると考えると、奇妙な危うさが見えてきてしまうな。
#クラシック
昨日はコンサート『湯浅譲二 作曲家のポートレート』に行ってました。
クセナキスの『ジョンシェ』が本っ当に良かった…
オーケストラが全体で一つの楽器に聴こえるというのは、オーケストラ楽曲の理想の一つだけど、今回初めてそれを体験できたかも。
多くの音楽に多かれ少なかれある緊張と解決、いわゆる音楽の恣意的な句読点というものが無いような曲なのだけど、それはつまり「A地点からB地点までのつなぎの音」のようなものがなく、音の動きのすべてが純粋な現象であるように振る舞うので、解釈や読み替えを必要とせずに聴くことができる。大気の流れのような物理現象を可聴化するとしたら、きっとこうなるんだと思う。
あとは個人的な趣味として、大太鼓の皮が破れんばかりの全力打撃音を聴けたという意味でも、大変満足でした
いわゆる社会的な芸術作品にある、作者が見ているもの・問題視しているものに、鑑賞者も向かせようとする作品が苦手だ。そこには、啓蒙する作者とそれに追随する鑑賞者、という無意識の主従関係が内包されているから。
それを嫌だと思うのは、実際に私自身が、作品がスポットをあてている物事について知らない側なので、それを咎められているように感じるからかもしれない。
それでも知らない側に何かを知ってほしいなら、言葉を尽くすか、せっかく芸術でやっているのなら作品をある視点に誘導しようとする記号で固めないで、当事者の生き様を生々しくも美しく追体験させてほしいと思う。
社会人大学院生: サウンドプログラマ/フロントエンドエンジニア/大学非常勤講師として働く傍ら、インタラクティブアートやサウンドアートについて研究中。作品制作も細々と。