韓国のデモ。参考になる。
デモに直接参加できない人が、デモをやってる付近の飲食店であえてテイクアウトをお願いして参加者に配ってるというのを聞いて。
これは、どこの国でも一定数起きるけど。
日本ほどデモへの拒否感はなくとも、やはりどの国でも近隣のお店に全く迷惑がかからないということはない。
音も大きいし、お客じゃない人が行き来したり道を塞ぐだろうし、ごみを捨てていく人もいるだろうし、お手洗いなどもお借りするかもしれない。
デモの主旨は理解しててもそれとは別に店主側の気持ちというのもある。
デモに行けない分の支援と、近隣の商売との折り合いも兼ねて迷惑料じゃないけどお店の売り上げが減らないように購入して、デモ参加者に配ると聞いて、なるほどなぁと思った。
@ryoko_ando 書きたくもない言葉ですが、「これでお前はオレの女だ」という犯行時の言葉に集約されているとおもいます。
@ryoko_ando 会議の進行役で、ファシリテーターとともに「モデレータ」という言葉もありますが、この違いは結構大きいような気がします。ファシリテーターが誘導的だと議論が深まっていかないと思いますので、僕自身はモデレータに徹しようといつもオンライン勉強会のときに考えています(なかなかうまくできないのですが)
石破茂の「企業・団体献金の禁止は憲法21条が定める表現の自由に抵触」って答弁、アメリカのCitizens Unitedみたいな極右団体が最高裁まで行って戦って「勝ち取った」成果を、勤勉な日本の極右もしっかり勉強して持ち込もうとしてるってことでしょ。
法人に自然人のような人格を与えて、Super PAC経由で選挙に無限にカネ突っ込めるようにして、広告も献金もフリースピーチということにしておけば、カネ持ってるほうが圧倒的に有利になるわけだし。
組織としては票を持ってなくても、カネ使ってでいくらでも世論に影響を与えられるという。
なんせ恐ろしく執念深くて勤勉な連中だから、こういうことを何十年もかけて、最高裁を乗っ取るという遠回りなことしてまで実現してくるわけで。
ぼーっとしてて勝てるわけない。
【速報】企業献金禁止は表現の自由に抵触と首相
https://www.47news.jp/11882229.html
おまえは何を言っているんだ
@ryoko_ando これだけ生成AIが発達してくると、SNSを介した出会いが、本当に人間同士の出会いなのか、吟味する必要がありますね。またこの流れに対応して、リアル(実際に会う)出会いばかりを強調する姿勢も、熟考が必要だなと感じます。いわゆるホモソのひとたちに、案外このタイプが多いんです。一人で何もできないからつるむタイプ。
@insaem 早稲田大学が学生向けにだしているHPの定義がわかりやすいと思いました
https://www.waseda.jp/inst/weekly/feature/2023/10/23/113117/
@ryoko_ando ぼくはナラティブ(ナラティヴ)と物語(ストーリー)の違いを、
ナラティブ(ナラティヴ):ひとり語り、自分のことを語る物語
物語(ストーリー):自分も含め社会を語る物語
と使い分けようとしてます。
なんとなくナラティブっていうとかっこいいと思っている人が多いのかもしれませんね。ナラティブ注意!
修辞学的な三段論法は公衆のためにできている(科学の眼差しの下にできたのではない)から、心理学的な配慮がきめ手になる。アリストテレスもそのことを強調している。
推論はあまり遠くから持って来られてはいけないし、結論するために、すべての段階を経る必要はない。退屈させるかもしれないからだ(帯証式は重大な場合にだけ用いられるべきである)。なぜなら、聴衆の無知を考慮に入れなければならないからである(無知とは、まさに、多数の段階を経て推理することができず、長時間、推論をたどることができないことである)。あるいは、むしろ、聴衆に、自分自身で、自分自身の知力で、無知を克服するのだという自覚を与えて、この無知を利用しなければならない。
ポール・ロワイヤルは、常に、言語活動は精神に比べて過ちやすい――そして、エンテューメーマは言語活動の三段論法である――と考えていたけれど、このような不完全な推論の楽しみを認めていた。《〔三段論法の部分の〕このような削除は、話しかけている相手の知性に何かを委ねることによって、相手の虚栄心をくすぐる。そして、言述を要約することによって、それを一層力強く、一層生き生きしたものにする。》
『旧修辞学』エンテューメーマの楽しみ(p98)
この記述ポピュリズム政治家の言説を理論付けるものだ。
アリストテレスの「修辞学」は、とりわけ、立証の、推論の、近似的三段論法(エンテューメーマ)の修辞学である。それは、意識的に程度を落し、《公衆》の、つまり、常識の、世論のレベルに適用された論理学である。
その大衆文化では、アリストテレス的な《真実らしいこと》、つまり、《公衆が可能だと思うこと》が支配しているのである。なんと多くの映画、新聞小説、商業的ルポルタージュがアリストテレス的規則をモットーとしていることだろう。《真実らしくない可能なことより、可能でない真実らしいことを》。現実に可能なことでも、世論という集団的検闇によって拒否されるならば、それを語るよりは、たとえ科学的に不可能であっても、公衆が可能だと思うことを語った方がいいのである。
このような大衆修辞学をアリストテレスの政治学と対比するのは確かに魅力的な試みだ。それは、周知のように、中産階級を主体とする均衡のとれた民主政治に都合がよく、金持と貧乏人、多数派と少数派の敵対を減少させる任務を帯びた中庸主義の政治学であった。そこから、意識的に公衆の心理に従う良識の修辞学が生れたのである。(『旧修辞学』ロラン・バルト、みすず書房p28)
兵庫県知事選挙をどう分析するか。こんなところにヒントがあった。
明日から、比較政治学入門講座で、ethnic conflictのユニット。ジェノサイドとかエスニッククレンジングの例にホロコーストはもちろん入れるけれど、ガザについては、International Court of Justiceの見解はジェノサイドの可能性がある、けれど、まだ最終的な結論出ていない、という言い方をしないといけないのが歯痒い。 夫の国際政治の倫理のクラスでは、もっと踏み入った授業をできたようだが、例の一つとしてあげる場合には難しい。でも、ジェノサイドの例を幾つか言及するのにガザをスルーする訳にはいかない。 日本含め、他国を植民地にした国々の人殺しは半端じゃない。コントラストにスライドに数値を入れときます。
授業では、どういった条件が揃うとethnicity とか宗教の違いを巡る争いがが起こるのかを考えていきます。
ご飯を作ったり山に登ったり、ときたま本を読む。月1回程度、直接のやり取りがない方のFFリストを見直します。