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アリストテレスの「修辞学」は、とりわけ、立証の、推論の、近似的三段論法(エンテューメーマ)の修辞学である。それは、意識的に程度を落し、《公衆》の、つまり、常識の、世論のレベルに適用された論理学である。

その大衆文化では、アリストテレス的な《真実らしいこと》、つまり、《公衆が可能だと思うこと》が支配しているのである。なんと多くの映画、新聞小説、商業的ルポルタージュがアリストテレス的規則をモットーとしていることだろう。《真実らしくない可能なことより、可能でない真実らしいことを》。現実に可能なことでも、世論という集団的検闇によって拒否されるならば、それを語るよりは、たとえ科学的に不可能であっても、公衆が可能だと思うことを語った方がいいのである。

このような大衆修辞学をアリストテレスの政治学と対比するのは確かに魅力的な試みだ。それは、周知のように、中産階級を主体とする均衡のとれた民主政治に都合がよく、金持と貧乏人、多数派と少数派の敵対を減少させる任務を帯びた中庸主義の政治学であった。そこから、意識的に公衆の心理に従う良識の修辞学が生れたのである。(『旧修辞学』ロラン・バルト、みすず書房p28)

兵庫県知事選挙をどう分析するか。こんなところにヒントがあった。

修辞学的な三段論法は公衆のためにできている(科学の眼差しの下にできたのではない)から、心理学的な配慮がきめ手になる。アリストテレスもそのことを強調している。

推論はあまり遠くから持って来られてはいけないし、結論するために、すべての段階を経る必要はない。退屈させるかもしれないからだ(帯証式は重大な場合にだけ用いられるべきである)。なぜなら、聴衆の無知を考慮に入れなければならないからである(無知とは、まさに、多数の段階を経て推理することができず、長時間、推論をたどることができないことである)。あるいは、むしろ、聴衆に、自分自身で、自分自身の知力で、無知を克服するのだという自覚を与えて、この無知を利用しなければならない。

ポール・ロワイヤルは、常に、言語活動は精神に比べて過ちやすい――そして、エンテューメーマは言語活動の三段論法である――と考えていたけれど、このような不完全な推論の楽しみを認めていた。《〔三段論法の部分の〕このような削除は、話しかけている相手の知性に何かを委ねることによって、相手の虚栄心をくすぐる。そして、言述を要約することによって、それを一層力強く、一層生き生きしたものにする。》
『旧修辞学』エンテューメーマの楽しみ(p98)

この記述ポピュリズム政治家の言説を理論付けるものだ。

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