修辞学的な三段論法は公衆のためにできている(科学の眼差しの下にできたのではない)から、心理学的な配慮がきめ手になる。アリストテレスもそのことを強調している。
推論はあまり遠くから持って来られてはいけないし、結論するために、すべての段階を経る必要はない。退屈させるかもしれないからだ(帯証式は重大な場合にだけ用いられるべきである)。なぜなら、聴衆の無知を考慮に入れなければならないからである(無知とは、まさに、多数の段階を経て推理することができず、長時間、推論をたどることができないことである)。あるいは、むしろ、聴衆に、自分自身で、自分自身の知力で、無知を克服するのだという自覚を与えて、この無知を利用しなければならない。
ポール・ロワイヤルは、常に、言語活動は精神に比べて過ちやすい――そして、エンテューメーマは言語活動の三段論法である――と考えていたけれど、このような不完全な推論の楽しみを認めていた。《〔三段論法の部分の〕このような削除は、話しかけている相手の知性に何かを委ねることによって、相手の虚栄心をくすぐる。そして、言述を要約することによって、それを一層力強く、一層生き生きしたものにする。》
『旧修辞学』エンテューメーマの楽しみ(p98)
この記述ポピュリズム政治家の言説を理論付けるものだ。
とりあえず感じたことをnoteにまとめた。
https://note.com/heping_q/n/n93eaa1ea8a5c