脳への栄養が枯渇している
故意に差別を繰り返す者らと同じ土俵に乗ってはいけない、とはよく言われることだけど、その土俵はあくまでもかれらが「(差別をするために)設定した土俵」のことであって、我々すべてが問答無用で乗ることになる〈THE土俵〉みたいなもの(=我々はみな差別や加害をやらかす可能性があること)は否定できないし、ゆえに「我々反差別を表明する者らはそんな下劣な反知性的な土俵には乗っていないのだ」というような態度は取れないはず。
でもそう思いたくなる。自らの差別・加害可能性を認識し続けること、その可能性を減らすために学び続けることは、とても苦しいことだから。だからこそ、我々がすべきことは「誰のほうが正しいか=差別をしていないか/誰のほうが悪か=差別をしているか」というような競い合いではなく、我々みなが共通して持っている差別・加害の可能性をいかにして減らしていくかを考え実践する協働作業なのだと思う。当然そこには批判がある。でもそれは存在の否定でもないし、恒久的な悪認定でもない。批判は励ましであり、励ましは批判でもある。そのような環境を広げていかねばならないのではないか。
私が本屋lighthouseのウェブメディアで宗教差別に関する連載をこぼねさんに依頼したのは、私が宗教や信仰に精通しているからではなく、むしろいわゆる「無宗教」を自認していて宗教や信仰に関してわからないことが多すぎる、これ以上無自覚な差別・加害を続けるのはまずい、と思ったから。
差別に反対することを表明するのは、自らが差別をしないことの表明や証明ではなく、どれだけ知識や経験を得ようとも気をつけていようともやらかしてしまう差別や加害の可能性・回数を少しでも減らすために、学び続けることを意味しているのではないか。
だからこそ、反差別を表明している者としていない者との間に境界線を引き、前者を本質的に善/後者を本質的に悪とすることも、私はしたくない。我々はみな同等に、差別や加害をやらかす可能性を持つ存在である、そう認識して行動したいと思っている。いまはもう、故意に差別を繰り返す者ですら「他者」だとは思えない。私はそうなる可能性を持っているし、学び続ける必要があるという条件は同じなのだから。
たとえば「イスラム教の礼拝に関する描写を作中の重要要素として使いたい」と言ってイスラム教徒に協力を仰ぎ、しかし実際の作中描写は教徒として容認はできない改変がされており、かつその承諾もなしに気がついたら作品が公開されている、しかもその礼拝の場面で救いを求める作中人物はことあるごとに己を無神論者だと言っているし、なんならそのほか作中の描写でもイスラムフォビックなものが散見される、なんて事態が生じたとして、それをどう擁護できるというのか。
これが擁護できてしまうのなら、その理屈とはいったいなんなのか。「宗教=常に悪」「だからどんなふうに扱ってもかまいやしない」ということなのだろうか。あるいはイスラム教など大きな宗教であれば問題となるが、いわゆる「新興宗教」であれば問題にはならず、どんな扱いをしてもいいと感じてしまうのだろうか。
あまりにもめちゃくちゃなことを言っていても、発言主が著名であるとか友人であるとかそういう理由でその破綻を見逃してしまうことはよくあり、そういう権力性のある立場に自らがなってしまっていることへの自覚がないことの怖さを思う。当然、本屋lighthouseにもその「立場」がもたらされていて、常に己に突き刺すべき言葉なのだけども。
我々のだれもが失敗や加害と無縁でいられない以上、無謬の書き手、無謬の本など存在しない。書かれた当時には常識だった、いまとなっては差別となるものも本にはたくさんあるし、書き手にもそのような「変更不能な過去」はある。それらすべてを精査し、なにか瑕疵が見つかれば排除しろ、しないのであればそれは不正への加担だ、ということを常に要求されるのは端的に言って「無理」だし、そういう要求をされているように感じてしまう精神状態に定期的になってしまうのを私のせいにされても「無理」だし、そのドツボにはまって発信をやめた本屋(あるいはその気配を感じて最初から発信をしないことを選んだ本屋)も確実に存在している。
各種の「(推測による)断定」は個々の権利であって私にはそれを規制することはできないのだけど、特に本屋の場合「あいつと関わっている(から敵だ)」的な判断をされる可能性、あるいは頻度が比較的多くなってしまう。なぜなら本を扱っているから。そして我々はだれひとりとして失敗や加害とは無関係ではいられないから。
(ある特定の界隈で起きた)事情を知らない可能性とか、そういうものは考慮されずに敵認定される場合がどうしても生じてしまう(もちろん自衛のためにその断定をする権利は誰にでもある)。そういう体験を一度でもすると、実際にはそんな断定・断罪をされていなくても、その可能性に怯えることになる。なにか事件が起きたあとに売上が下がったりするとなおさら。
本屋lighthouseとして、その立ち位置とともに認識されることが増えていくにつれて、公私の区別をつけて「もらえない」ことの苦しさというか疲労というかが積み重なっていく感じがあり、年々それは重みを増している。被害妄想なのかもしれないが、「なにもしない」「なにもしていないように見える」ということを常に責められている気がしてしまい、社会で(あるいは界隈で)なにか事が生じるたびに、言いようのない圧を感じてしまう。
この観点からも、Twitterでの更新をほぼやめてしまったことはよかったように思える。SNSで繰り広げられる人間関係と、その関係性と切り離すことができないままなされる各種の「(推測による)断定」に晒されていると、最終的には身動きがとれなくなるから。
本屋lighthouseのナカノヒト。おぺんのおともだち。