本屋lighthouseとして、その立ち位置とともに認識されることが増えていくにつれて、公私の区別をつけて「もらえない」ことの苦しさというか疲労というかが積み重なっていく感じがあり、年々それは重みを増している。被害妄想なのかもしれないが、「なにもしない」「なにもしていないように見える」ということを常に責められている気がしてしまい、社会で(あるいは界隈で)なにか事が生じるたびに、言いようのない圧を感じてしまう。
この観点からも、Twitterでの更新をほぼやめてしまったことはよかったように思える。SNSで繰り広げられる人間関係と、その関係性と切り離すことができないままなされる各種の「(推測による)断定」に晒されていると、最終的には身動きがとれなくなるから。
我々のだれもが失敗や加害と無縁でいられない以上、無謬の書き手、無謬の本など存在しない。書かれた当時には常識だった、いまとなっては差別となるものも本にはたくさんあるし、書き手にもそのような「変更不能な過去」はある。それらすべてを精査し、なにか瑕疵が見つかれば排除しろ、しないのであればそれは不正への加担だ、ということを常に要求されるのは端的に言って「無理」だし、そういう要求をされているように感じてしまう精神状態に定期的になってしまうのを私のせいにされても「無理」だし、そのドツボにはまって発信をやめた本屋(あるいはその気配を感じて最初から発信をしないことを選んだ本屋)も確実に存在している。
正義を求めることは必要だし間違っていないが、その際にどうしても付随してしまう処罰欲求、そしてそれを放置すると生じてしまう無自覚な加害欲求を制御しないでいると、その正義は「暴走している」と言われても反論ができないものになる。
差別や加害はその者が本質的に悪人だからとか、知性がないからとか、そういう理由から生じるわけではなく(そういう場合ももちろんあるが)、基本的にはSOSの発露なのだ、適切かつ十分なケアがなされないままでいるから生じるものなのだ、という認識のうえで正義を追求していかないと、いつのまにか処罰欲求と加害欲求にのみこまれることになる。