星野の記事のよろしくないところは、自分の主張が受け手によって都合よく利用されるのが嫌だ(から政治的な主張を明白におこなうのはやめて文学の世界に戻りたい)というようなことを言っておきながら、「リベラル」「カルト」「正義」のような曖昧な言葉を多用して批評を(無自覚に)おこなっているところだと思う。ゆえにその曖昧さによって「私のことか!」となった者らが反発したり反省したりしているし、そのことによりまた分断(これも曖昧な言葉)が生じている。圧倒的な定義不足。
そしてこの「曖昧さによってさまざまな解釈を可能にする」という手法はまさに文学の手法であって、星野が批評家ではなく文学者であることの証のようなものにもなっているのだけど、だからこそ「自分の主張を受け手の都合で勝手に利用されたくない」というような欲求を抱き文学の世界に戻っていくのは悪手なのではないか、と思っている。
差別や虐殺などのど真ん中に放り込まれて身動きが取れなくなっている者らからしたら、本の力だとか文学の力だとか言論の力だとか知性だとか理性だとかといったものはどうでもよく、とにかく我々をここからすくい出せ、ということでしかない。その現実を見据えつつそれらの力を信じ行動するのか、その現実から目を背け(=特権を行使し)ながらそれらには力があると叫ぶのか、そこには大きな違いがある。端的に言って、後者は現実逃避でしかない。しかし出版業界の一員として、我々は常に後者の在り方を選択していると言わざるを得ない。
最近、やっと自分の身体の動かし方についての理論的な「感覚」がわかってきていて、あらためて自分の身体が練習量に耐えられないつくりだったことの悔しさを感じている。
街の(家族経営)本屋同様、バッティングセンターも後継者がいなくて閉業、というパターンがありそうなので、いつでも経営を引き継ぐ気持ちだけはあるのだということは、大きな声で言っておきたい。ここマストドーンにバッティングセンター関係者がいる確率はかなり低いが。
本屋lighthouseのナカノヒト。おぺんのおともだち。