本屋lighthouseとして、その立ち位置とともに認識されることが増えていくにつれて、公私の区別をつけて「もらえない」ことの苦しさというか疲労というかが積み重なっていく感じがあり、年々それは重みを増している。被害妄想なのかもしれないが、「なにもしない」「なにもしていないように見える」ということを常に責められている気がしてしまい、社会で(あるいは界隈で)なにか事が生じるたびに、言いようのない圧を感じてしまう。
この観点からも、Twitterでの更新をほぼやめてしまったことはよかったように思える。SNSで繰り広げられる人間関係と、その関係性と切り離すことができないままなされる各種の「(推測による)断定」に晒されていると、最終的には身動きがとれなくなるから。
各種の「(推測による)断定」は個々の権利であって私にはそれを規制することはできないのだけど、特に本屋の場合「あいつと関わっている(から敵だ)」的な判断をされる可能性、あるいは頻度が比較的多くなってしまう。なぜなら本を扱っているから。そして我々はだれひとりとして失敗や加害とは無関係ではいられないから。
(ある特定の界隈で起きた)事情を知らない可能性とか、そういうものは考慮されずに敵認定される場合がどうしても生じてしまう(もちろん自衛のためにその断定をする権利は誰にでもある)。そういう体験を一度でもすると、実際にはそんな断定・断罪をされていなくても、その可能性に怯えることになる。なにか事件が起きたあとに売上が下がったりするとなおさら。