たとえば「イスラム教の礼拝に関する描写を作中の重要要素として使いたい」と言ってイスラム教徒に協力を仰ぎ、しかし実際の作中描写は教徒として容認はできない改変がされており、かつその承諾もなしに気がついたら作品が公開されている、しかもその礼拝の場面で救いを求める作中人物はことあるごとに己を無神論者だと言っているし、なんならそのほか作中の描写でもイスラムフォビックなものが散見される、なんて事態が生じたとして、それをどう擁護できるというのか。
これが擁護できてしまうのなら、その理屈とはいったいなんなのか。「宗教=常に悪」「だからどんなふうに扱ってもかまいやしない」ということなのだろうか。あるいはイスラム教など大きな宗教であれば問題となるが、いわゆる「新興宗教」であれば問題にはならず、どんな扱いをしてもいいと感じてしまうのだろうか。
ようは「ただの素材」としか考えてないからこういう酷い消費の仕方をしてしまう。己が紡ぎたいストーリーのために、素材をいかようにも調理する自由が創作者には与えられているが、その自由は常に暴力を内包している。
存在そのものが悪であるならば無許可で素材にしていい、素材としてどのように調理してもいい、そのように素材=他者を捉えているのなら、当然作品は暴力性を伴うものになる。いや、どんなに丁寧に素材を扱ったとしても暴力性は生じてしまうのだから、それが批判されることを受け入れるのは創作者の責任なのではないか。