私が本屋lighthouseのウェブメディアで宗教差別に関する連載をこぼねさんに依頼したのは、私が宗教や信仰に精通しているからではなく、むしろいわゆる「無宗教」を自認していて宗教や信仰に関してわからないことが多すぎる、これ以上無自覚な差別・加害を続けるのはまずい、と思ったから。

差別に反対することを表明するのは、自らが差別をしないことの表明や証明ではなく、どれだけ知識や経験を得ようとも気をつけていようともやらかしてしまう差別や加害の可能性・回数を少しでも減らすために、学び続けることを意味しているのではないか。

だからこそ、反差別を表明している者としていない者との間に境界線を引き、前者を本質的に善/後者を本質的に悪とすることも、私はしたくない。我々はみな同等に、差別や加害をやらかす可能性を持つ存在である、そう認識して行動したいと思っている。いまはもう、故意に差別を繰り返す者ですら「他者」だとは思えない。私はそうなる可能性を持っているし、学び続ける必要があるという条件は同じなのだから。

フォロー

故意に差別を繰り返す者らと同じ土俵に乗ってはいけない、とはよく言われることだけど、その土俵はあくまでもかれらが「(差別をするために)設定した土俵」のことであって、我々すべてが問答無用で乗ることになる〈THE土俵〉みたいなもの(=我々はみな差別や加害をやらかす可能性があること)は否定できないし、ゆえに「我々反差別を表明する者らはそんな下劣な反知性的な土俵には乗っていないのだ」というような態度は取れないはず。

でもそう思いたくなる。自らの差別・加害可能性を認識し続けること、その可能性を減らすために学び続けることは、とても苦しいことだから。だからこそ、我々がすべきことは「誰のほうが正しいか=差別をしていないか/誰のほうが悪か=差別をしているか」というような競い合いではなく、我々みなが共通して持っている差別・加害の可能性をいかにして減らしていくかを考え実践する協働作業なのだと思う。当然そこには批判がある。でもそれは存在の否定でもないし、恒久的な悪認定でもない。批判は励ましであり、励ましは批判でもある。そのような環境を広げていかねばならないのではないか。

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。