蓮実重彦が群像3月号で、丸山眞男を罵倒しているらしい。
蓮実が丸山眞男を「理解」できたとは思えないが、「理解」できなくても「批判」する「言論の自由」は勿論ある。
ま、これは大学に行ったときに図書館に行って、蓮実の「馬鹿」ぶりを確認してから、批判することにする。ただ、最近、短期的記憶障害が激しいので、大学に行ったはいいが、この件をちゃんと覚えて図書館に行けるかどうか不安ではある。
蓮実は、千葉雅也さんに言及しながらフーコーについても語っているらしいが、これも笑止千万な話。
私は一応、蓮実もフーコーもすべて読んだが、蓮実がフーコーについて「語る」資格があると感じたことはない。
これは蓮実に限らず、日本の「現代思想」系や仏文系の人間が書いた、ほぼすべてのものに言える。
「監獄の誕生」や「狂気の歴史」、それにコレージュ・ド・フランス講義録については、日本の仏文学者にそもそも「理解」できる筈もないが、やはり最もひどいのは「言葉と物」である。
この本が「人間の終焉」の結語とともに、なまじ最も流行したことも災いした。
正直、仏文系の人間は『言葉と物』のレジュメを書けたこともない。
これは当然で、哲学に関する相当な知識とフーコーの言説戦略の双方を見抜く力が要求されるからである。
「第一次世界大戦の後で。敗戦国ドイツで二つの重要な著作が刊行された。ひとつはマルティン・ハイデガーの『存在と時間』(一九二十七年)であり、もうひとつはヴァルター・ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』(一九二八年)である。前者は、人間存在の根源を存在論的概念をもって…後者は、十七世紀のバロック演劇を人間存在の根源から美学的に解釈したしたものである。…どちらも戦争と革命という社会的にして文化的な危機のなかで、存在の根源に死を見ぬかねばならなかった。二人の思想家が、死を人間の存在論的条件においたことは決定的に重要である。」(今村仁司『貨幣とは何だろうか』ちくま新書1994年、pp.32-33)
近代とは、死者が語らなくなった時代。死者の声が聞こえなくなったなった時代である。
おやおや、今月の『文芸春秋』東浩紀と御厨貴で「日本の近現代史を訂正していこう」という対談をやっているらしい。
しかし、東浩紀は日本の近現代史を学んだことはないから「訂正」も何もない。
どうも猪瀬直樹と「日本は訂正できるか」などというイベントを2月末にやるらしいが、そんなに「訂正」したいなら、まず自分のが過去を消去するしかない。
ところで、御厨貴東大名誉教授は「オーラル・ヒストリーの第一人者」などという大層な肩書とともに読売や日経に周期的に登場しては「愚にもつかない」ことを繰り返している御仁である。
例の「ナベツネ」インタビューの時にも登場し、「報道者が政治のフィクサーを兼ねるのは、如何なのでしょう?」との問いに、「いやー、それはほんとはよくないよ。よくないけど、ナベツネさんはそれをこえちゃったわけ。渡辺恒雄になっちゃんたんだな」と絵に描いたような幇間を演じていた。
御厨貴、北岡伸一、五百旗頭真などなどの東大・京大政治史の「修正主義」はとうの昔に完成している。焦点は戦後民主主義の価値を最小化、ないし抹消すること(この点では新左翼と重なる)。
歴研系の歴史とはまずは相いれないが、扱う時代に置いて微妙にすみ分けている節もある。
特に現代史は歴研系の奮起が待たれる所である。
現在インドの政権はヒンズー原理主義を掲げるインド人民党(BJP)、首相はモディです。
1992年にムガール帝国時代のモスクを破壊された場所に、22日「ラーマ神誕生地」を記念すると称する「ヒンズー寺院」の落成式があり、モディ首相も参加しました。
これに対し、ケララ州首相(インド共産党)と西ベンガル州首相(草の根会議派)は、世俗主義と諸宗教の調和の立場からそれぞれモディ首相を批判。
政権与党BJPはガンジー暗殺者を「英雄」と讃え、インド全国に数百万人の「民兵」組織をはりめぐらします。
2002年グジャラート州で発生した反イスラム暴動では、少なくとも数千人のムスリムが虐殺された。この時の州首相がモディ。つまり、多くのポグロムと同様、政府・警察の黙認・示唆とともに多数の人間が殺された。
BJPは98-2004年に政権をとり、核実験の実施など威嚇的政策を採用。一度下野しましたが、14年からもう10年近く政権についている。
インドはバンガロールに象徴されるようなIT産業と破産に追い込まれて自殺する大量の農民が象徴するように、新自由主義的再編が元来のカースト制と結びついて社会を大きく揺り動かしている。
そしてここでも宗教原理主義と結びついた深刻な「フェミサイド」が多発している。
パレスティナ自治政府で労働相などを務めたビルゼイド大学のガッサン・カティブ教授は、現在ヨルダン川西岸の自治政府も「崩壊寸前」との見方を示しました。
イスラエルはパレスティナ自治区の徴税を長らく「代行」しているが、近年自治政府に送るべき「資金」を凍結。自治政府は公務員への給料滞りから機能不全に陥っていると言う。
元来、パレスティナ自治区の徴税をイスラエルが「代行」する、ということがおかしい。政府は住民からの納税で存在するもの。であるからイスラエルはパレスティナ自治政府の「生殺与奪の権」を握っているに等しい。
その上、ネタニエフは先日、ガザのみならず、ヨルダン川西岸からもパレスティナ人を一掃する、つまり自治政府も倒すことを、今回の戦争の目標と発表。
たまらず、なりを潜めていたヨルダン政府もイスラエルを非難。これはヨルダン西岸からのパレスティナ難民が自国に流入し、王政が不安定化するのを恐れるためでもある。
また隣国のサウジとエジプトもそれぞれ、超家父長的王制とエジプト同胞団の活性化を恐れて、ガザの檻の中での大虐殺からの避難を拒否。
カディブ教授は「国際社会は言葉で非難するだけで実際はイスラエルの行動を容認してきた」とし、「このままではイスラエルの支配しかなくなる」と警告している。
最近SNSで浅田彰の『構造と力』に批判的に言及する哲学・思想関係者が多いと思ったら、どうも文庫版が出たらしい。
今手元にないが、高校の時に読んだ記憶では、図式としては1)文化記号論の整理とその「乗り越え」、2)サルトル、メルロー、ラカンの三題噺、だったように思う。
基本的に、日本の「現代思想業界」の言説の整理である。
丸山圭三郎と山口昌男の記号論の整理とその「乗り越え」の図式などは典型的。何と言ってもサブタイトルが「記号論を超えて」である。
しかしソシュールの一般言語学を哲学・思想の「アマルガム」として図式化することは、一時流行ったが、これは哲学の訓練を受ければ、無理筋であることは自明。仏でも「テル・ケル」などでそれに近い議論があったが、フーコーもデリダもそれには批判的だった。蓮実でさえ、勘ではあるが、「フーコーと文化記号論の不倶戴天の敵対性」に言及していた。
ソシュールの一般言語学は19世紀に誕生し、人種主義とも結びついた「比較言語学」を批判するのには有効。これは日本の現代思想業界では全く理解されていない。
しかも『構造と力』、1983年刊だが、仏ではこの議論15年前には「終わっている」。かなり周回遅れの議論である。浅田の「おフランス」ぶりの面目躍如といったところか。
サルトル、メルロー、ラカンの三題噺の部分も、サルトルの箇所は「読んでいない」ことは明らかである。またラカンの部分は主に鏡像段階論の話である。
しかしラカンの鏡像段階論、デリダのラカン論によれば「サルトルのパクリ」。これには私も同意。
デリダ(1930生)はボス型のラカン(1901生)が自分を手下にしようと接近するのをーフーコーと同様にー非常に嫌っていた。
ただ、ENSのアルチュセール派がラカンを担いでいたため、同僚である「アルチュセールとその弟子達」には、そのあたりかなり慎重に対処していた。
日本のアルチュセール派に関して言うと、市田良彦にしろ浅田彰にしろ、実は仏留学体験がなく、パリを中心とした仏思想・哲学に関しては実は「素人」である。勿論、これは「留学」すればいい、という意味ではないことを急いで補足する必要があるが。
この辺りのコンプレックスがスパルタカス君との「分業」が成立した理由であろう。
『構造と力』に戻ると、「スキゾ・キッズ」と「資本主義の速度に賭ける」という部分が戯言であることは「スキゾ・キッズ」東浩紀のネトウヨ大王への成長振りを見れば明々白々である。
この部分で関しては、哲学の訓練を受けていない私の父でさえ、「資本主義対して甘すぎる」と感想を述べていた。
この群馬の森朝鮮人追悼撤去をめぐる問題、今の超保守韓国政府からも外務省に「穏当な解決を求める」という申し入れがあったという。
普通、外務省の報告を受けて、総務省が群馬県の暴走を止める、という流れにならないか?
記事のよると、なにやら「日本女性の会 そよ風」と名乗る草の根極右団体が「反日」的と2012年に主張しはじめたとあるが、そのような世迷亊は、行政は、たた聞き流していればいいのである。
この追悼碑、2004年に県議会は全会一致で決定、外務省と県も関与して場所を決めた、とある。
いくら日本社会がこの20年右傾化したといっても、これはもう滅茶苦茶である。
この20年で、極右の声は大きくなったが、国民のスタンスはそれほどそれほど大きく右にふれていない。つまり、メディアやメディアに登場するタレントたちが極右化しているだけ、の面が多い。最近、三浦瑠麗にとってかわった感のある飯山陽などは「何を言っても極右」にネジが撒いてある。
あとは「ジョーカー」を典型とする、地方議会に進出し始めている法務博士。この人たちは「社会」に対する「鬱屈したルサンチマン」は抱えながらも、必ず自己を「権力」の側に置く。その「存在証明」のためにありとあらゆる「マイノリティー」を攻撃する。
ここは警戒が必要である。
「犬が吠えても歴史は進む」、これは父親が共産主義者であったので、1969生の私には幼少の頃から延々と聞かされて来た言葉である。
私自身は、中学の時から明らかに「共産主義」とは違う主張をするようになり、叔父に「トロちゃんぽいね(新左翼ぽっい)」とよくからかわれていた。
結局私は一度も共産主義者にもマルクス主義者にもならなかった。理論的にも「歴史の必然」は無意味な命題、という立場。
変数がほぼ無限とも言える「歴史」に関しては、数理論理学の中でのみ使える「必然」はナンセンス。
物理学でさえ、カントは「必然性」の基礎付けを考えていたが、19世紀の熱力学の発展によって「統計的相関性」に置き換えられた。
ところで、父は共産主義者であり続けたが、母は途中で例の「民主集中制」の問題で緑+精神分析に移行。しかし、4,5歳の時に母が感情を爆発させていた映像と「民主集中制」という言葉が結びついたのは、中学に入ってから。
しかし、共産主義は身体の管理を必ずしも「悪い」と考えておらず、母の子に対する管理・管理教育が重畳したので、私は極端に管理に対してナーバスになり、ついにトックリ・セーターが着れない体質になってしまった。
これは冬には大変不便で咽喉を痛めやすい。年々悪化するがどうしたものか・・
BT
私はこのインタビューの先生については何も存じ上げないのですが、ちょっと疑問に思ったので。
通り魔殺人を起こした犯人が、
「誰でもいいから殺したかった」などと言うことがあります。最近はそういう言い方に対して、「本当に誰でもよかったのか、弱そうな相手を狙った犯行だったのではないか」と批判されることが多くなりました。
アルベール・カミュは、フランスが北アフリカで植民地にしていたアルジェリアで、植民者側のフランス人として生まれた人です。
そして、カミュが書いた『異邦人』って、「植民者が現地のアラブ人を殺す」小説なんですよね。
『異邦人』についても、本当に単なる「不条理」殺人といっていいのか、今現在の視点から見ると、問題になると思います。
(サイードも指摘していますし)。
現在のこのパレスチナの文脈のなかで、「アラブ人が無意味に殺される」話について語る際に、「殺した」側のムルソーの話ばかりを語り、「殺される側」からあらためて捉えかえす視点がないのは、おそらく無意識にフランス人・植民者側の視点に立っているからだと思います。
おそらく定年も間近な教授が、数十年の研究の果てに、未だにこうした地点からしか語りえないのだとしたら、「文学研究」の価値ってなんだろう、と思ってしまいます。 [参照]
今日の新聞広告にでかでかと東浩紀・茂木健一郎対談の新書『日本の歪み』が貼り付けられている。
「すべてが壊れてしまう前に、日本人が考えるべきこと」と銘打っているが、これを滑稽と呼ぶか、笑止千万と切って捨てるか、は難しいところである。
何と言っても、「すべてを壊している」当事者たちが語っているのである。
脳科学芸人の茂木さんなどは百田尚樹の新党結成に駆けつけた、というから、相当切羽詰まってはいるのだろうけれども。
「日本の歪みを喝破する」とリード文にあるけれども、これもなかなかに味わい深い。これこそ「自己言及」の典型例だと言えるだろう。これも「現代思想」の成果かな?
しかし、Amazonランキング1位、「大反響4刷り」とあるが、ほんまかいなー。これでは「日本も壊れる」だろう、少なくとも文化産業は。
ところで、「日本人が考えるべきこと」というのが、いかにも東・茂木対談らしい。日本語を読むのは「日本人」だけではないの!
どうもSNSで「運動をする研究者はダメ」と珍妙なことを口走っている奇特な御仁がいるらしい。
ま、そう思うのは「ご本人の勝手」という面もあるが、しかし「運動をしない研究者」というのはどういうものだろう?
まず「運動をする」とはどういうことか?
これは元来アリストテレスの自然学の概念である。アリストテレスにおいては、物事の変化の原因を4つに分け、そのうちの一つを運動因とした。
近代の物理学は、他の4つの要因を排除し、「運動」にのみ、限定、それに数学的表現を与えることで進化してきた、と言える。
「運動」が「社会」現象について用いられるようになったのは19世紀くらいからではないか?例えばフーリエの『四運動の理論』。
それはともかくとして、研究というのは、その行為に抽象的な意味での「規範」を内在させている。これは言語行為論でも問題にされた所で、デリダはサールとの論争において「記述的命題」と「規範的命題」の二項対立は脱構築される、とした。
しかし、仄聞する御仁の「運動をする研究者はダメ」との言明、あまりにもあからさまな規範的判断の提示であり、それ自体立派な「運動」である。
あるいはデモに参加したり、政権の批判をする研究者を「ダメ」と言っているのであれば、その人はただの「あほ」である。
とある人から「講座 社会学」と云うものが、岩波から出版中と聞き、どれどれと覗いてみる。
すると「環境・災害・技術」の巻頭論文は、あの「開沼博」である。
開沼と言えば、「風評被害」の概念を経産省・東大のために創造するのに関わったばかりか、先日の原発汚染水排出の際には、「風評加害」という法的概念を提唱し、法廷に告訴できるようにすべきだ、と産経で吠えていた男である。
この男を原発災害に関して起用する方針だとすれば首を傾げる。
あとざっと見るに、産業社会学(企業分析)、政治社会学、法社会学、国際社会学、歴史社会学、そして元来兄弟ジャンルであった人類学などの分野が妙に手薄に感じるが、これは昨今の日本の大学の社会学の傾向なのであろうか?
私などは大学院修士の時には指導教官は見田宗介さんであったにも関わらず、指導なしの全くの「放し飼い」であった上に、当時の「社会学」の言説に、ーここは見田さんと同様ーかなり距離を感じており、なにやら30年後の「社会学」には感慨を抱く。
ちなみに「見田さんと同様」というのは、「見田さんも当時の社会学にはかなり距離を感じていた」という意味である。
「ネトウヨ大王」東浩紀を「右でも左でもない」などと持ち上げている愚か者たちがいるようだ。
東浩紀がネトウヨでしかないこと、これはユークリッド幾何学における「平行線の公準」程度には明晰にして判明なことである。
経験的なFACTSにも事欠かない。南京事件、性奴隷制、安倍自民応援団、原発汚染水絶対安全宣言、それに今話題の森喜朗の手下、夏野剛司会の選挙速報で、三浦瑠麗、石戸諭とともに統一教会擁護の立場から福島瑞穂さんをオフラインにして罵倒し続けたことなど、列挙に暇はない。
それにしても、問題は「母と息子」という構図でしか「共感」能力が作動しない東に対して「ホロっと」としている私立武蔵OBの馬鹿どもだろう。
これは米国に例えて言えば、プレップ・スクールからアイビーリーグに進んだ白人の男達だけの同窓会で、トランプの下請けとなって黒人や女性を罵倒しているかつての同級生に対して、「ホロっと」している連中である。
これは、単なるエリート内での仲間意識だけではない。日本にありがちな「母と息子」という構図でしか「他者」をリアルに感じられないハビトゥスの共有でもある。
この連中は女性と知的に対等な「他者」として向き合うことができない。底の見えない「ミソジニー」とはこのことである。
今、話題の「安倍派」五人組の筆頭とも言える、西村前経産省、1962生灘高ー東大法学部ー通産省資源エネルギー庁入省。
ZEN大学チェアマン予定の鈴木寛さんは一学年下で同じ、灘高ー東大法ー通産省資源管理庁と同じコース。
であるから、元来この二人は通産省内部灘高関係でかなり密接な仲だったのだろう。
西村氏の方は1999年に退官して自民党森派に所属。通産省を重用する安倍の方針にも助かれたか、順調に派閥幹部へと出世。
鈴木寛氏も西村氏と同じ1999年に退官、2001年に民主党公認で国会議員に当選、2期12年。2013年に落選した後、何故か東大・慶応教授に「天下り」、その後、下村博文、馳浩、松野、という安部派重鎮を文科大臣補佐官として支える。
鈴木氏は森喜朗との関係が深いとされるが、これは上述のキャリアと西村氏との関係を考えれば、おそらく事実なのだろう。
とすると、2022年年末に大学法を改定、全面オンライン大学を合法化し、2023年自らをチェアマン、「ネトウヨ大王」東教務部長、笹川財団初期期資本提供とするZEN大学企画を突如として動画公開した流れも得心がいく。
というのも、そこで鈴木氏は「法律は守りますよ、守りながら」という脱法行為を宣言。このハビトゥス、通産省に固有のものとされる。
死ぬ間際のただの年金じじいだよ(Asyl)