最近SNSで浅田彰の『構造と力』に批判的に言及する哲学・思想関係者が多いと思ったら、どうも文庫版が出たらしい。

 今手元にないが、高校の時に読んだ記憶では、図式としては1)文化記号論の整理とその「乗り越え」、2)サルトル、メルロー、ラカンの三題噺、だったように思う。

 基本的に、日本の「現代思想業界」の言説の整理である。
 丸山圭三郎と山口昌男の記号論の整理とその「乗り越え」の図式などは典型的。何と言ってもサブタイトルが「記号論を超えて」である。

 しかしソシュールの一般言語学を哲学・思想の「アマルガム」として図式化することは、一時流行ったが、これは哲学の訓練を受ければ、無理筋であることは自明。仏でも「テル・ケル」などでそれに近い議論があったが、フーコーもデリダもそれには批判的だった。蓮実でさえ、勘ではあるが、「フーコーと文化記号論の不倶戴天の敵対性」に言及していた。

 ソシュールの一般言語学は19世紀に誕生し、人種主義とも結びついた「比較言語学」を批判するのには有効。これは日本の現代思想業界では全く理解されていない。 
 
 しかも『構造と力』、1983年刊だが、仏ではこの議論15年前には「終わっている」。かなり周回遅れの議論である。浅田の「おフランス」ぶりの面目躍如といったところか。

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 サルトル、メルロー、ラカンの三題噺の部分も、サルトルの箇所は「読んでいない」ことは明らかである。またラカンの部分は主に鏡像段階論の話である。
 
 しかしラカンの鏡像段階論、デリダのラカン論によれば「サルトルのパクリ」。これには私も同意。

 デリダ(1930生)はボス型のラカン(1901生)が自分を手下にしようと接近するのをーフーコーと同様にー非常に嫌っていた。

 ただ、ENSのアルチュセール派がラカンを担いでいたため、同僚である「アルチュセールとその弟子達」には、そのあたりかなり慎重に対処していた。

 日本のアルチュセール派に関して言うと、市田良彦にしろ浅田彰にしろ、実は仏留学体験がなく、パリを中心とした仏思想・哲学に関しては実は「素人」である。勿論、これは「留学」すればいい、という意味ではないことを急いで補足する必要があるが。

 この辺りのコンプレックスがスパルタカス君との「分業」が成立した理由であろう。

 『構造と力』に戻ると、「スキゾ・キッズ」と「資本主義の速度に賭ける」という部分が戯言であることは「スキゾ・キッズ」東浩紀のネトウヨ大王への成長振りを見れば明々白々である。

 この部分で関しては、哲学の訓練を受けていない私の父でさえ、「資本主義対して甘すぎる」と感想を述べていた。

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