サルトル、メルロー、ラカンの三題噺の部分も、サルトルの箇所は「読んでいない」ことは明らかである。またラカンの部分は主に鏡像段階論の話である。
しかしラカンの鏡像段階論、デリダのラカン論によれば「サルトルのパクリ」。これには私も同意。
デリダ(1930生)はボス型のラカン(1901生)が自分を手下にしようと接近するのをーフーコーと同様にー非常に嫌っていた。
ただ、ENSのアルチュセール派がラカンを担いでいたため、同僚である「アルチュセールとその弟子達」には、そのあたりかなり慎重に対処していた。
日本のアルチュセール派に関して言うと、市田良彦にしろ浅田彰にしろ、実は仏留学体験がなく、パリを中心とした仏思想・哲学に関しては実は「素人」である。勿論、これは「留学」すればいい、という意味ではないことを急いで補足する必要があるが。
この辺りのコンプレックスがスパルタカス君との「分業」が成立した理由であろう。
『構造と力』に戻ると、「スキゾ・キッズ」と「資本主義の速度に賭ける」という部分が戯言であることは「スキゾ・キッズ」東浩紀のネトウヨ大王への成長振りを見れば明々白々である。
この部分で関しては、哲学の訓練を受けていない私の父でさえ、「資本主義対して甘すぎる」と感想を述べていた。