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 岸田訪米で「日米軍事一体化強化」。英語誌では当然「軍事同盟」強化と報道。

 実際には米軍指揮下の連携の範囲をさらに拡大するだけだが。
 それにしてもハワイ太平洋司令部の移転と軍事費倍増を伴うことは大きい。

 台湾有事が無理と来れば、今度は南シナ海への中国の海洋進出を阻止、ときた。しかし、筋論としては、そこは日本が責任をもつ海ではないし、実際には米海軍とオーストラリアで十分に対応可能。
 
 どうも日本の政治家は忘れがちだが、中国は建国の成り立ちからして陸軍大国。米国は、英国と同じく元来は陸の常備軍をもたない海洋国家である。中国指導部がわざわざ相手に有利な場所を選ぶ筈もない。

 しかし、日本政府、米国への従属度は、もはや政権が清和会であろうと宏池会であろうと、関係ないようだ。

 繰り返すが、日本社会は5年度で軍事費倍増に耐えられる状態ではない。いわんや米軍への「思いやり」予算など「バラマキ」をしている時ではないのだ。

 岸田は大統領専用車に乗せてもらって喜んでいるようだが、小学生でもあるまい。

 バイデンはバイデンで日本とのfrendshipを発信している暇があったら、ガザ地区への人道支援をイスラエルに強制すべきだろう。
 

意味を伝達する言葉には、共感する原理がそもそも欠けている。聞き手の想像力がそれを補っている。だからこそたとえ嘘であっても伝達してしまうのである。

gom_nori2 さんがブースト

 なにやら三島由紀夫を「文学的に」評価する向きが未だに根強くあるようである。

 参考までに言うと、同じ学習院出身のあの嫌味な蓮実重彦でさえ、三島を文学的に評価することは一切なかった。蓮実の批評は「ロマン主義」は一切ダメという構造になっており、この「ロマン主義」は実質「日本浪漫派」就中三島由紀夫のことを指す。

 あと、蓮実が嫌っていたのは「ロマン主義」が「近代を超える」という御伽噺で、これに対して「魂の唯物論的批評」を対置した。

 昔蓮実の駒場の映画の演習に出た時に、1930年頃の映画を数分流して「これは何を批判しているのか?」と学生に問いかけ、私は「ロマン主義」と答えて褒められたことがある。
 今振り返ると、ここで「ロマン主義」と学生が答えるのは明らかに無理筋で、これは私がいわゆる「文学的ロマン主義」を嫌っていたことによる偶然の一致である。

 蓮実自身はフランス・ロマン主義の「賭金」を理解していなかったが、それでもフローベールの「散文」を対置する構図に持ち込むのは、何はともあれ文学的ロマン主義=詩を批判する意図からである。

 従って、蓮実にとっては三島が大江の足元にも及ばないことは元来自明の事柄であり、大江死去にあたっては、「沖縄ノート」をはじめとする「アンガジュマン」も評価するに至った。

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日本の本土のヤマト系の極右が「縄文時代から続く日本の伝統!自然と寄り添った神道!」とかやってんの、アメリカの白人がネイティブアメリカンの儀式は俺たちの文化だ!みたいにやってる滑稽さがあるよなと。
考えてみれば、考える必要もないのだけれど気付かなかった点として、ド直球の文化盗用だよなと。

ベンヤミンがブルジョア的言語観だと批判する、今では一般的になってしまった、意味内容を他者に伝達する機能としての言葉は、赤の他人を含む大規模定住社会の成立と起源を同じくしている。しかしながら、言葉自体の起源はそれよりも遙かに古いものだ。オープンダイアローグの対話は、言葉のその古い使用場面に起源を持っている。

史的イエスを追求していけば、父ヨゼフという存在への言及は避けられない。吉本隆明の「マチウ書試論」は、おそらくイエスが父ヨゼフを否認した史実を扱っている。「関係の絶対性」という言葉は、家族・種族といった狭い共同性との断絶と超越について言った言葉だろう。

「批評家としての吉本隆明を代表する作品として、まず「マチウ書試論」を挙げることができる。そこで提起された諸問題を一つに総合し、十全な解答を与えた著作こそ『最後の親鸞』であろう。「マチウ書試論」で描き出されたイエスと、『最後の親鸞』で描き出された親鸞は互いに良く似た分身のように、あるいは互いに正反対に映る鏡像のように、存在している。イエスは、ユダヤ教的「絶対との関係」を解釈と実践の果てに解体し尽くし、「神」めぐる未曾有の思想として再構築した。親鸞は浄土教的な「絶対との関係」を解釈と実践の果てに解体し尽くし、「仏」巡る未曾有の思想として再構築した。」(安藤礼二『吉本孝明』NHK出版2019年)

gom_nori2 さんがブースト

 立憲の野田元首相が、「関東は立憲、関西は維新」で「候補者調整すべき」と主張している、ということだ。

 先日、岡田幹事長が連合の芳野会長との対談で維新との選挙協力について言及したばかり。

 幹事長とはそれすなわち、選挙対策本部長。
 つまり立憲は、近々予想される総選挙で維新との「共闘」を主軸にする方針、ということになる。これに関しては泉代表も異存なし、と言ったところだろう。

 先日の京都市長選はその「リハーサル」であったとも言える。ただし、京都市は共産党+無党派VS自民・立憲・前原・維新だったわけだが。

 いずれにしろ、維新と共闘する、ということは共産を外す、ということ。

 なんのことはない、これは長らく戦後日本政治を規定してきた構図であり、また連合が強く求めていることでもある。

 しかし、京都市長選の結果を見てもわかるが、立憲+共産で自民+維新に「勝てる」地域もある。

 さらに長期的・根本的なことを言えば、ファシズム独裁の維新と「共闘」することは、もはや立憲が「オルタナティヴ」を議会で代行する気がないことを満天下に知らしめること。

 立憲主義・民主主義といった理念とは全く無縁の、「政権交代」の名を借りた永田町政治家の内輪の「権力闘争」の次元。これでは投票率も下がる一方だろう。

 

「ブッダは、輪廻の苦しみを終わらせる方途を探した結果、縁起を覚知したのであって、業と輪廻の世界観は当然の前提である。」(清水俊史『ブッダという男』ちくま新書、p.160)
業はともかくも釈迦にとって「輪廻が前提」だったということは、「唯物論者」である現近代人にはなかなか理解できないことだろう。

「こうして、智学における仏法と国体の二元的な矛盾は解消され、里見の国体論は首尾一貫したものとなる。だが、そのことは同時に、智学がその矛盾故に持っていた可能性を消し去ることにもなる。里見が消してしまった智学の矛盾の中には、どんなに国体論の中に収め込もうとしても、そこからはみ出す仏教から目を逸らすことができなかった智学の、不器用な誠実さがあったのではないだろうか。」(末木文美士『日本の近代』講談社学術文庫2022年)

「《ああいい さっぱりした/まるで林のながさ来たよだ》というこの特異な声の出来事、どんな意味にも解消できない翻訳不能の出来事を、まさに異物のような起源として、テクストが書かれ、そしてそのなかではじめて詩人は、この声に対して応えるべき言葉を返すのである。それは、対話、遅れてきた対話となる。一度もそれとしては起こらなかったかもしれない対話がいま起きる。過ぎ去った取り返しえない時間の感覚を置いて、しかし二つの発話の時間が対話の空間を生み出す。テクストという空間のもとで、途方もない時間錯誤(アナクロニズム)の出来事が起きるのだ。」(小林康夫『出来事としての文学』講談社学術文庫 1995年、p.26)

「フランシス・ラップの試算では、「もしも穀物が肉食用家畜の飼料にされることなく、また穀物の配分が平等になされたとすると、世界には一日一人あたり五〇〇〇カロリーに達する十分な食料があることになる。」(ハンフリー/バトル『環境・エネルギー・社会』)」(見田宗介『現代社会の理論』)
現代の学問が何か意味あることを語りうるとすれば、生産力の過剰という近代社会の到達点を前提にしたときだろう。

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 ネオ・プラトニズムと言うと、プロティノスが代表的な思想家とされるが、古代キリスト教最大の教父アウグスティヌズも元来ネオ・プラトニストだった。

 中世のスコラ哲学では、アラビア語から重訳されたアリストテレスの論理学が中心になる。

 ネオ・プラトニズム復興は、ルネサンスのイタリア、特にフィンレツェにおいて盛んになる。ボッティテェリなどフィレンツェ派の絵画は、ネオプラトニズムの寓意としても解読できる。私は高校時代、林達夫と高階秀爾の本でこのことを知った。

 同時にルネサンス期には古典ギリシア語から直接プラトンやアリストテレスを「読もう」とする試みが始まる。これが近代文献学第一期。つまりルネサンスは論理学ではなく、文献学の時代。

 元来カトリック公認のラテン語の「ウルガータ」(聖ヒエロニムス訳)ではなく、古典ギリシア語から「新約聖書」をドイツ語、フランス語、英語、チェコ語などに翻訳しようとする試みが始まる。当時は聖書の翻訳は「死刑」によって禁止されていた。

 各国語への聖書の翻訳と文法書の出現が、「国家語」へと繋がっていく。

 ところで、「無限」に関してもプラトンとアリステレスは立場を異にする。通常、プラトンに近いと見られるカントは「無限」に関してはむしろ、アリストテレスに近いのである。

「一九七〇年代における、世界人口増加率の劇的な、かつ一回限りの屈曲はおそらくこの[地球という惑星の]閉域性、有限性の史上初めての現実的な露呈ということの、意識されない構造的な因果関係の帰結であったし、それはまたローマクラブの『成長の限界』等として、人間が初めてかつ急速にこのことを意識化した時点と重なっている。」

「人間にとってのロジスティック曲線は、二十世紀末のグローバリゼーションによって、「外部の消失」ということによって、初めて、理論的にも現実的にも根本的な規定要因になった」(見田宗介『現代社会はどこに向かうか』岩波新書2018年)

「狩猟採集民においては、強迫性格もヒステリー性格も循環気質も執着気質も粘着気質も、ほとんど出番がない。逆にS親和型の徴候性への優位(外界への微分[回路]的認識)が決定的な力をもつ。ここでは「現実から一歩遅れてあとを追う」(ミンコフスカ――粘着気質者についての表現)ことであれ、自縄自縛(テレンバッハーー執着気質者についての表現。訳語は木村敏による)であれ、遅れるものに用はなく、つねに現在に先立つ者であることだけが問題なのだ。」(中井久夫 新版『分裂病と人類』UPコレクション2013年、p.15)

「大乗仏教は「空」の思想を確立するよりも前に、「他者としての仏」という思想を経典中に展開してきたことが知られる。・・・しかし、「空」よりも前に他者や死者の問題が大乗仏教の最初の問題だったとするならば、従来の大乗仏教理解はもう一度問い直されなければならなくなる。
「空」が問題になるのは、むしろこのような他者問題を前提としている〔から〕とも言える。なぜなら、他者とは、客観的にそれ自体として存在するものではなく、私との関係において問われるものであり、存在より関係が優先されなければならない。関係とは、初期仏教以来の用語で言えば「縁起」であり、存在の優位性を否定する「縁起」=関係の立場が「空」とされるのである。
 このように文献に基づく思想史の読み直しは、ステレオタイプ化された哲学の再検討を要求し、他者論を根底に置く新しい哲学の可能性に道を開くものとなる。」(末木文美士『死者と菩薩の倫理学』ぷねうま舎2018年,p.132)

「それはまったく、死者のたましいと対話を繰り返す二年間だったと言える。田邊元はしばしば、生者の思想は彼が死んで後、別の生者のたましいにおいて復活をとげるときに、はじめて真実の生命を得るのである、と書いている。この仕事が続けられていた間、彼の思想が私の生命を媒体として、何度もなまなましく立ち上がり、歩きだすのを、私は体験した。」(中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』集英社2001年,プロローグ)
20世紀はオルテガが言う「死者の助け」を完全に見失ってしまった時代だったのだろう。そんな僕たちは死者達の声にもう一度耳を傾けようとしているのだろうか。

「過去は死に切ったものであり、それはすでに死であるという意味において、現在に生きているものにとって絶対的なものである。」(三木清『人生論ノート』角川ソフィア文庫2017年、p.15)

「原理的に言うならば、"存在は知覚なり"も"非知覚は非存在なり"も、経験的には成り立たない命題なのだ。われわれの知覚現場は比較的単純明快に、非知覚的世界はより一層複雑に、その都度すでに完了態として言語的に分節され、構造化されて、端的に存在するのである。換言すれば、言語的分節世界として他者が常に歴史的に構造化されて、無量無数の死者たちからの贈与として、常に存在する。つまり、言語的分節世界としての他者は"この世"のみならず"あの世"をも、その深層においては含むのである。
もしそうでなかったら、われわれは死や死者を語り得ないはずで、もちろん、人類の精神の根柢たる宗教もその萌芽すら示せなかったはずである。」(渡辺哲夫『死と狂気』ちくま学芸文庫2002年、pp.118-119)

「三木は・・・死者は死に切ったものであることによって、生命をもつことをいった。この絶対的な死の論理をもって伝統をいい、過去をいうことによって三木は末世をめぐるすぐれた歴史認識を導いたのである。それが遺稿「親鸞」である。」(子安宣邦編著『三木清遺稿「親鸞」』白澤社2017年、p.148)

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