なにやら三島由紀夫を「文学的に」評価する向きが未だに根強くあるようである。
参考までに言うと、同じ学習院出身のあの嫌味な蓮実重彦でさえ、三島を文学的に評価することは一切なかった。蓮実の批評は「ロマン主義」は一切ダメという構造になっており、この「ロマン主義」は実質「日本浪漫派」就中三島由紀夫のことを指す。
あと、蓮実が嫌っていたのは「ロマン主義」が「近代を超える」という御伽噺で、これに対して「魂の唯物論的批評」を対置した。
昔蓮実の駒場の映画の演習に出た時に、1930年頃の映画を数分流して「これは何を批判しているのか?」と学生に問いかけ、私は「ロマン主義」と答えて褒められたことがある。
今振り返ると、ここで「ロマン主義」と学生が答えるのは明らかに無理筋で、これは私がいわゆる「文学的ロマン主義」を嫌っていたことによる偶然の一致である。
蓮実自身はフランス・ロマン主義の「賭金」を理解していなかったが、それでもフローベールの「散文」を対置する構図に持ち込むのは、何はともあれ文学的ロマン主義=詩を批判する意図からである。
従って、蓮実にとっては三島が大江の足元にも及ばないことは元来自明の事柄であり、大江死去にあたっては、「沖縄ノート」をはじめとする「アンガジュマン」も評価するに至った。