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ランチは近くのタイ料理店からのデリバリー。豚肉のラープとガイ・ヤーン(チキンロースト)にハーブと口直し。食べきれないほどまだある(写真だけで半分だもん)ので、夜もコレになりそう。

@sayuri_t_h 風船爆弾については全く知りませんでしたが、「…常に自分も加害者になっているんじゃないか…」にドキリとしました。
被害者にも加害者にもなりたくないと思うのは誰にも当然なのだけれど、知らないうちにどちらかになってしまう危険はいつもあるわけですよね。特に「加害者」(になってしまったひと)、ネット差別で告発されたひとの常套句に「そんなつもりじゃなかった」がありますが、誰もが先によく考えるべき問題だと思います。

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報道ステーションを見てたら風船爆弾の特集をやっていた。
当時風船爆弾がオレゴンに到達し、森にピクニックに来ていた子供連れのグループが落ちていた風船爆弾に触れてしまい爆発により妊婦の女性と子供達合わせて6人が死亡した、という事実は知らなかった。
石碑が映されていたけど、妊婦の女性は26歳、あと5人は11歳から14歳の子供達。

風船爆弾の製造に関わった現在96歳の高橋光子さん。
インタビューに答え、戦後この事実を知って、自分でも知らないうちに自分がやったことが人の生死に関わることになっているんだと思い辛い思いをしたと語った。
戦後作家になり著書「ぼくは風船爆弾」の中にも記述がある。

「一度戦争が起これば、自分がどんなにいやで、気をつけていても、いつ被害者になるかわからないし、加害者になるかもしれないのです。ぼくがそのいい例です」

インタビューではこうも語っている。

「戦争だけじゃなくていろいろな差別もある時に、常に自分も加害者になっているんじゃないかということは考えておかないといけない」

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関東大震災後の虐殺から逃れるため、日本人になりすました朝鮮人留学生。第2次大戦前、ナチドイツにダンサーとなって渡り、ナチ側について対日本スパイに。

前にも一度書いたけど、関東大震災後の虐殺の影響はこんなところにまで。

SNL(サタディ・ナイト・ライブ)に出演していたFred Armisen氏が、ルーツを探る米国の番組(NHKのファミリーヒストリーみたいなもの)で、祖父の真のルーツを知る話、自分は1/4日本人ではなく、1/4朝鮮人だと判明して驚く。
youtube.com/watch?v=ye7z3ErM4D

半ギプスがとれたのが嬉しくって、病院の近くのらあめん亭プレミアムで祝杯ならぬ祝ラーメン。いつものチャーシュー麺だ。久しぶりのラーメンはやっぱり東京風のさっぱり醤油ラーメンだね。ここのチャーシューが紙みたいに薄くなくて分厚いのも好き。

ということでレントゲンと外科医の診察終了。第5中足骨基部骨折は一応完治。亀裂はまだうすーく残っているらしいが、歩くには問題なし。バンザイ。

ただし5週間も満足に歩いていないのでリハビリ必要。特に筋肉と足首が弱くなったかもしれないので、歩いていてガックリと行く可能性あり。裸足ダメ、ハイヒールダメ、底の厚くて固い靴(つまりスニーカーですな)で3−4週間過ごしてから、オーストラリアのクリニックでもう一度レントゲンと診察。

とりあえずは半ギプスが取れたのが嬉しい。包帯を巻いていたところのアセモがひどい。
今はこんなふうにサポーターのみ。

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病院。外科で待合室がものすごく混んでいる。…と思ったら、若い男性患者が診察室から出てきて待合室の6人が立ち上がった。大人4人子ども2人。なんとまあ付き添いの多いことよ。

「積ん読」ってKindleでもやっちゃうんだよねえ…

そう言えばnoteにこんなことも書いていました。
話に出てくる実家もその隣にあった木造平屋もすでに売却し、3階建ての新しいアパートになっています。

note.com/gabyshideaway/n/naa40

@rabit777 これはわたしもよくパースで訊かれるんですが、返事に困ります。こういう質問は「日本をよく旅行している外国人」に訊いたほうがいいんじゃないかと。
大体「日本で…」とか「東京で…」とか訊かれても大きすぎて。どこに泊まるか何日いるかにもよりますしね。

まあ、訊くほうは軽く考えていて「みゆさんやわたしが日本人だから」訊いているだけなんでしょうけれど。

終戦記念日だ。

亡き母からは時々戦争中の話を聞かされた。母は当時まだ10代になったばかりだったから、空襲で逃げ惑う話が多かった。そして戦闘機の音が大嫌いだった。トラウマだったのだろう。

亡き父は学徒出陣で終戦前にはシベリアの捕虜収容所で過ごした。背中に大きな凍傷の痕があった。でも収容所での話は聞いても教えてはくれなかった。亡くなったときにその当時収容所に一緒にいた上司が自分で綴った思い出のコピーをくれて初めて詳細を知った。

戦争は父母のような市井のひとびとに大きな傷跡を残したが、皆高齢者となって話を聞く機会も少なくなりつつある。

戦争を全く知らないわたしたち戦後生まれがこの先どう日本という国を未来の世代に残していけるのか、8月15日になるといつも思う。

バンコク着。空港では車椅子ヘルプを頼んでおいたので便利だった。色々とあったけどね。それについてはまた後ほど。
ただ今バンコク時間午前8時45分、ただし11時間のフライトのあとではアタマがまだスイス時間午前3時45分。何もできないくらいぼうっとしているので、少し寝ないとね。

ずっと車椅子か松葉杖で行けないところも多かったスイス滞在だけれど、それでも楽しいことがたくさんあっていい思い出になった。

また来年も来ようと計画し始めた。

スイス最後の晩のディナーは農家を改造したSchöfflisdorfのレストランAlthausで。人口1300人ほどの小さな村で、そこに住む友だちが行くと必ず声をかけられる。

ここの名物はコルドンブルー。豚か仔牛か鶏を平たく伸ばしてハムとチーズを挟み、衣をつけて焼く料理だ。男性たちはフライドポテト付きだが、わたしはミックスサラダ。

でも…デカい。コルドンブルーからはラクレットチーズがとろり。そしてサラダの量もすごい。

結局半分しか食べられず、あとの半分は男性たちに半分ずつ食べてもらった。

夏時間で9時過ぎまで明るいので、外の景色を楽しみながら。

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チョコレート博物館のあと、Zürcher Kantonalbankというスイス銀行に行った。新しい口座とクレジットカードを作るためだ。

チューリッヒ繁華街・オフィス街のど真ん中なので、駐車場は…と心配したら「下のレセプションに言っておくから駐車場入口のインターフォンで」と。
停止バーはすぐに開いたけれど、地下に行ったら分厚い鉄の扉が自動で開いた。うわ。
そこにはすでに案内のスタッフが待っていて、上の小さなミーティングルームがならぶ階に誘導。部屋に入ったら、「珈琲か紅茶はいかがですか」と。うわ。何億もの大口取引のために来ているんじゃないのに。

あらかじめ予約しておいたスタッフが入ってきて、さっそく説明と書類の書き込み。そのあと今度は在外スイス人には詳しい経歴と現在の資産の内訳を訊かれる。黒いお金取引の防止だね。

日本とはずいぶん違う。日本は住んでいなければ口座は作れないからね。感心した。

Greifensee(グライフェン湖)を見ながら帰ってきたので、ついでに湖のほとりのレストランで軽いディナーのシーザーサラダを。

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アッペンツェルはその地方独特のカラフルな家並みがかわいい。
そこに住む友だちが車椅子を押してくれたので、1時間ほど街を回ることができた。ありがとう。

そのあとは彼とタイ人妻が住む家で午後のワインとおつまみを。
家は丘の中腹にあり、そこからの景色は素晴らしい。

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