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自分のことを無知の極みであるかのように考えているので、人と話したり何かを言ったりするのは自分にとって非常に難しくそして大変恥ずかしい行為のように思われる。

では何かの知識を足したり、そういった知識の扱い方に習熟したりすればそういった恥ずかしさは消えるのかというと恐らくそうはなりそうもないという気もする。

他人との比較を通して無知を自覚するという面は恐らくあるものの、その自覚への反応の仕方というのも人それぞれかもとも思う。

自分の場合は他者云々をきっかけはしながらも他者を忘れて、単に無知に圧倒される感覚に焦点を合わせているように思われる。

どれだけ知れば安全なのか?
充分には知らずとも満足する術があるのなら、それを学ぶのは重要だと自分には感じられる。
というのも知識もお金と同様に飲めば飲むほど渇き、そして渇きを癒やさない飲み物のように感じてもいるから。

中級者を躓かせるのは初級者からの褒め言葉なのだろうななどと思った。

そのような褒め言葉によってその技術が間違っているにもかかわらず、中級者はそれを正しいものだと思ってしまったりするのだろうな、と。

多分褒め言葉は聞き流しておくのが良いのだろうと思う。

そもそもその評価が適切であるためにはその技術の正否を評価する能力を備えている必要がありそうだと自分は思うのだが、それを初級者が備えているかというとその辺はやや疑わしいように思う。

また評価能力が充分ではない場合だけではなく、充分であっても評価以外の観点に基づいてそういった評価する場合もありそうだと思う(お世辞だとか?)。

同様のことは貶す言葉にも当てはまりそうだという気はする。

1)一次情報の確認が大事
とか、
2)他人に訊く前に自分で調べよう
と言う人がいる。

1)どれが一次情報なのか、どの程度それは信頼がおける内容なのかetc.を吟味する能力を自分が備えていると思っているのだろうか?

2)信頼できそうな第三者に訊くことは"自分で調べる"のうちに入るのでは?

上記の2点はあたかも信仰箇条のようであって、それらの発想自体がその発言者の中で吟味されていないような気がする。

それらの元となる発言をした人がどういう背景/状況の中で、どのような意図を以て言ったのかを考慮する必要があったのではないかと思う。

ヴェルディの運命の力の序曲。
トスカニーニが怖い顔をして振っている動画が残っているが、これはスコアを眺めながら聴くもの。

スコアを見ながら聴くと、動機が変形したりしながら全体に散りばめられていることに気づく。
劇場用の音楽について自分は軽く見ていたような気がする。
実際にスコアを眺めながら聴くとそれが偏見であり、先入観というかイメージが邪魔をして内容を聴けていなかったのかもと思う。

youtube.com/watch?si=Ctg2ztL4H

(承前)

ここでは恐らく司牧的役割から外れた所謂神学論争的何かが信徒の、特に個人的な内面/心の需要に応じてないと言いたいのかなと思った。

説教においてだけではなく言動一般にいわば司牧的配慮が欠けているならば(そしてそれは牧者側に限らず信徒側にも言えそうなことだとは思うが)、神及び人への愛の実践としての福音的生活とはいったい全体何なのかという話になってくるのではないだろうか。

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>罪は、元来いかなる学問にも決して帰属していない。
罪(原罪か?)自体はともかく、罪について理解は恐らく神学に属しているのだろうと思う。

>罪は説教の対象であって、説教では個人が個人として個人に向かって語りかけるのである。

罪は説教における興味深いテーマの一つであり、羊飼いが羊である個人を導く手段の一つである説教は究極的には神が神の民へ語りかけているということなのでは?

>(前略)牧師たちは、自分たちも学問に奉仕し、学問の権威のもとで説教したいという考え方をもつにいたった。

学問化(体系化か?)は論点を整理しやすくする。というより逆に整理するから学問化するように思われる。
そして整理を通じてより一層理解がしやすくなり論じやすくなると思われるが故に、その分野に対する学問化(?)の要請があるのではないか。
また扱う対象が複雑かつ微妙な性質を帯びていたりその対象の一般へ及ぼす影響が多大であったりする場合においては、扱いを慎重にする必要性があるのかもしれない。
それ故にそのような扱いに適していると思われる学問というお硬い(?)形式が必要とされるのではないだろうか。

(続) [参照]

面白い。
がしかし自分がこのトゥートを充分に理解しているとは思われない。
ただ気になる点があったので書いておく。

それは、信じるという動詞は信じているという状態もしくは態度に言及するものであって、恐らくアクティブ(?)な行為/活動を意味してはいないのではないかということ。
状態や態度の表明であって、行為/アクションを意味しないのではということ。

そしてこれは蛇足かもしれないが、信じているかどうかを自ら真剣に評価しようとする時、往々にして上に述べたようなアクティブな行為を意味するかのような信じるという動詞は多分基本的には出てこないものではないかと自分は思う。

そしてもし出てくるのならば、それは恐らく信仰宣言/信仰告白のような場であって、しかもそれは集団として宣言/表明する場ではないかと思う。

なお集団として、というのはどのような個人であっても恐らくその良心は信仰宣言/信仰告白の重みに耐えられないのではないかと思うため。 [参照]

ここでキルケゴールの言っていることは、何となくだが少しはわかる気がする。
ただ同時に、同じように何となくだが違和感も抱く。

多分具体的な宗教が半透明化(?)されているような印象をこの文章から感じたからだと思う。
多分それが故に広範な聴衆を獲得する可能性があるということのかもしれないが。

旧来(?)の宗教からエキス的何か(≠エッセンス)が非宗教的現代人へと滴り落ちているような印象。 [参照]

過去に関わった宣教師らに帰天している人が多いことにふと気がついた。
彼らと過ごした経験は夢の中の出来事ののように今となっては感じられる。

それ以外にもあれは夢だったのだろうかなどと思う過去の出来事は少なからずある。
過去の自分と現在の自分は断絶していないはずだが、どうも自分が通ってきた道だという気がしない。

自分が何らかの変化を遂げたのだろうか?その変化が成長に由来していなくて構わないし、退化のせいであるとはっきりした場合でも気にしないつもりではいる。

これはただの感想だが、トータルとして見た場合のこの人生についても夢の中の出来事のようだった等として後日の自分は処理しているのだろうなぁという気がした。

xで臓器提供欄をどうしているかという話が出ていた。 

家族ができてから臓器提供しないに変更したという話(子が"巣立った"後は提供へ戻すんだとか)や、提供はするものの身内に優先的に提供したい意思を備考欄に書く例があるようだ。

では自分はどうするか?
全て提供にしていて、備考欄には何も書いていない。
だが身内に優先的になどという話を聞いてしまうと、それの逆にしたくなる。

つまり身内以外に提供して欲しい、と。

身内をえこひいきしたかのように第三者から思われたら不名誉だ/嫌だという気持ちが自分にはどうもあるように思われる。
それにしても誰にとって不名誉かという観点もあるものの、一体死後の不名誉に関心を持つとはどういうことだろう?

所謂"福音的な"隣人愛の実践よりも、所謂"身内"を選んでいるかのように思って咄嗟に反発したのかもしれない。

初めは興味深いと思っても、何周かしているうちにその味は心を掻き立てなくなってくる。
ちょうど味のなくなってきたガムがそれに似ているかもしれない。

人間に対してそう思ってしまうことについては罪悪感を抱いてしまうこともあるかもしれない。

相手に飽きたということと、人間以外に何かに飽きたということの間には心理的負担において大きな違いがあるように思う。

ある人間について飽きたと認めるのは非常に心苦しく、重荷になりうると思う。

寧ろ面白くないものに対して、面白くないと感じたことを認めようとする心の動きには成長であるように思われた。

自分の心に嘘をつくのは果たして内面の成熟を意味するのだろうか?

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あまり興味を持てない相手を避けたり遠ざけたりするのは、自分にとって内面の進歩のように感じられる。

だがそれとは逆にそういう相手だからこそ、何かしら興味を持てそうな点を探し、そうすることを通じて相手との接点を探ろうとすることもあった。

だが後者のやり方は関係性の維持の労力を担うのが負担に感じられる時があった。
自分が手を離せばその関係は終わると思う時、特定の人間関係を維持しようという気持ちは薄れていくように思われた。

誰かに近付くこと及び近付かれることから生じうる居心地の悪さは、距離の近さを自分固有の何か尊厳的なものに対する脅威として感じ取る人にとって悩ましいものとなりうると思う。

というのは例えば親しさの表現としてのそれらは、あまりにもその加害性というか侵襲性のようなものを過小評価されがちであるように思われるので。

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誰かを馴染みのある、気心の知れた存在として敢えて*扱わない*ことが重要なのかなと思う。

ただひたすらに他者を他人として扱う態度は一見冷たいように思われるのかもしれないが、それは敬意を払い続けているということを意味している場合もあるのではないかと感じる。

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ではどうやってそんな状況を招かずに済むかというと、それは多分他者に対して礼を失しないように心掛けることによってではないだろうか。

些かポエムめいているし、どうも古臭いというか儒教っぽく聞こえるのかもしれないが、失礼にならないように努めることによって失われずに済む何かというのは案外多いのではないかと感じている。

他者に対して敬意を払うというか、他者を尊重する態度は案外というか意外とというか重要なのだと思う。

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何気ない感想も、権力/年齢/立場上の勾配的な何かがある状況において発せられるならば害悪というか暴力的になりうるのだろうななどと思った。

それらについて無自覚であるならば、人が何故離れていったかを理解するのは難しいのかもしれない。

>信仰によって私は何かを断念するのではない。逆に、信仰によって私はすべてを獲得するのだ。

なるほど。
信仰は何かを断念すること自体であり、そしてそれを通じてすべてを獲得するのではないだろうか。

>永遠なるものを得るために時間的なもののすべてを断念するには、純粋に人間的な勇気があればよい。

なるほど。
純粋に人間的な勇気とは何だろうか?
どうやったらそれを獲得できるのか。
純粋に人間的な勇気は、それこそ前提として恩寵を必要としているのではないだろうか?
人間はどうやったらそれを獲得できるのだろうか。

>しかし、その上で不条理なものの力によって時間的なものを捉えようとすれば、逆説的で謙虚な勇気が必要だ。それこそ信仰の勇気なのだ。信仰によってアブラハムはイサクを断念したのではなく、イサクを得たのである。

確かにそれはそうかもしれない。
美しく謙虚な逆説的表現であり、勇気のある信仰告白的な表現だと思う。

永遠と時間的存在を結び付けようとしていたのだろうか?
少なくとも、その結び目はどこなのか彼が探していたように自分には感じられた。
その表現が恐らく人々を永遠へと招く鐘の音のような役割を果たしていたのかもしれないなどと思った。
結び目を探す人はそれによって助けられるのだろう。 [参照]

以下はグールドの話からは少し逸れると思うのだが、少し思うことがあるので書いておく。

絶対王政的な何か――つまり中央集権的な何かと言っても良いのかも――の確立と、音楽におけるコンチェルトの出現は同期しているというような説を目にしたことがある。
確かにそれっぽくて、王様としての単一主題に花を添える取り巻き達や下々の臣民という図式が成り立ちそうに思える。

だがそれはいつ崩壊したのかを語る説は意外と目にしたことがなかった(と思う)。
後期ロマン派と言われるような19世紀後半では(実は自分はあまりよく知らないのだが💦)複数主題を備えた交響曲があると聞くが、それは中央集権的な何かの崩壊というか分権化のような何かと関係しているかのように論じられたことはあるのだろうか?

なお、以下は更に脱線します。

もしかして規模の拡大が複数主題を要求するようになったのかなとも思いました。つまり単一主題では間が持たないのではという観点もあったのかなと。

更に言えば多分交響曲は大抵大規模であるのかもしれず、ソナタはあまり大規模ではないような気もします。
そこら辺のサイズ感が主題数や展開方法に影響しているのかもと思わなくもないので、比較をしてみると面白いかもしれない。

そもそも何故規模を拡大しようと思ったのかも興味があります。 [参照]

>人々の主題の用い方は、バッハの音楽がそうであったような、作品のあらゆる面に滲み出るものではなく、ある特別なもの、著しく波乱に富んだもの、瞬間に属するようなものです。

ここが個人的には一番面白いと感じた点。
主題労作的な観点からの音楽の展開は単一主題を要求していたのかなと思った。
主題労作的な展開に拘ろうとすると、第2主題や第3主題は第1主題の首位性に席を譲り静止的要素を提供するに留まってしまったり特定の役割を担う部分的主題に留まってしまうのかなと思う。
それらには単一主題が備えていたような楽曲全体に及ぶ全的支配力(?)のようなものを欠いていたのかもしれない。

一方、複数主題制は対比や群像劇的な展開を要求していたのかもしれないと思うのだが、それらのような展開は確かに"ある特別なもの、著しく波乱に富んだもの、瞬間に属するようなもの"に適合していたのかもしれない。

刹那的/機会的存在として主題を利用するというのが、ここではバッハのやり方と対比されているのかもと思った。

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