信仰によって私は何かを断念するのではない。逆に、信仰によって私はすべてを獲得するのだ。
永遠なるものを得るために時間的なもののすべてを断念するには、純粋に人間的な勇気があればよい。
しかし、その上で不条理なものの力によって時間的なものを捉えようとすれば、逆説的で謙虚な勇気が必要だ。それこそ信仰の勇気なのだ。信仰によってアブラハムはイサクを断念したのではなく、イサクを得たのである。
(キルケゴール『恐れとおののき』)

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>信仰によって私は何かを断念するのではない。逆に、信仰によって私はすべてを獲得するのだ。

なるほど。
信仰は何かを断念すること自体であり、そしてそれを通じてすべてを獲得するのではないだろうか。

>永遠なるものを得るために時間的なもののすべてを断念するには、純粋に人間的な勇気があればよい。

なるほど。
純粋に人間的な勇気とは何だろうか?
どうやったらそれを獲得できるのか。
純粋に人間的な勇気は、それこそ前提として恩寵を必要としているのではないだろうか?
人間はどうやったらそれを獲得できるのだろうか。

>しかし、その上で不条理なものの力によって時間的なものを捉えようとすれば、逆説的で謙虚な勇気が必要だ。それこそ信仰の勇気なのだ。信仰によってアブラハムはイサクを断念したのではなく、イサクを得たのである。

確かにそれはそうかもしれない。
美しく謙虚な逆説的表現であり、勇気のある信仰告白的な表現だと思う。

永遠と時間的存在を結び付けようとしていたのだろうか?
少なくとも、その結び目はどこなのか彼が探していたように自分には感じられた。
その表現が恐らく人々を永遠へと招く鐘の音のような役割を果たしていたのかもしれないなどと思った。
結び目を探す人はそれによって助けられるのだろう。 [参照]

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