>しかし、ベートーヴェンの芸術の凄さは、むしろその奮闘ぶりにあるのであって、ときおり達成される超越の境地にあるのではないのです。
はたしてそうだろうか?
寧ろその見方は人間としてのベートーヴェンの存在を神話化しようとしたその時代や後世の見方をより色濃く反映しているのではないだろうか。
>交響曲とソナタは、この新しい積極的な人間性がそれ自身を表現するために作った器楽形式でした。
はたしてそうだろうか?
交響曲とソナタはその新しい積極的な人間性とやらを表現していることは勿論あるだろう。
だがブルックナーは?
彼の交響曲は寧ろベートーヴェン以前の超越的世界を志向しているように自分には思われる。
またリストのそれらはどうだろう?
彼にとっては超越的も新しい積極的な人間性も等価であるように自分には思われる。
交響曲とソナタに何を盛り込むかは人それぞれだったのではないだろうか?
また交響曲も(ここで言及される)ソナタも楽曲の形式としては基本的同一なのではないか?分けて言及する必要はあったのだろうか?
一方で、"器楽形式"という指摘は興味深い。何故旧来の、例えば声楽や形式よりも例示されたような器楽形式を作ったのか。
(続) [参照]
昨日見つけたバッハの、色々な作曲家のコンチェルトをチェンバロ独奏用へと編曲した曲を聴いていて思った。
【参考動画】
以下は2時間半ある長大な動画なので、聴くなら一部だけ取り出すのが良い。
https://www.youtube.com/watch?si=2lKs7d42YlhLkeaY&v=rlqBb9pkbdg&feature=youtu.be
意外とバッハのこういった協奏曲からの影響は露骨といえる程までに前面に出てきているように思われるにもかかわらず、一般にはあまり意識されていないような気がする。
多分バッハ=対位法/フーガの使い手というイメージが邪魔をして、バロックのコンチェルトにおける集団と個の対比、前景(?)と背景(?)といった所謂バロックらしさに意識が向きにくくなっているのではと思う。
とはいえバロック的な和声面や構造面※でのわかりやすさや聴きやすさを、それ以前の時代のわかりにくく複雑な音楽と融合させてしまったのがバッハの功績かなとも思うので、バロック性(?)があまり注目されないように感じられるのも仕方ないのかもと思う。
※楽曲の形式構造やフレーズの構造、旋律と伴奏といった役割分担といった構造
そしてバッハの、前時代的なスタイルへの傾倒が同時代の音楽へ栄養を供給していたのかなとも思う。実際は同時代のみならず未来をも照らす結果になっていたと思います。
日頃寡黙であったりすると、トリガー的な何かがあった時には堰を切ったようにべらべらまくし立てたり、とんでもなく長い文を書いたりするのではないか。
ただ文章作成の要諦はコンパクトに書くことだと聞いたことがあるし、受け手の受け取る能力にも恐らく限りがあるわけだろうから、その営みは不毛なものとなってしまう可能性が高そうだと思われる。
そしてここが難しいところだと思うのだが、そうやって垂れ流したような表現の中に往々にして真実というか真相らしき何かが散らばりつつも割と多く含まれているように思われる点だ。
そういうわけで、それらを知りたいがためにとりあえず垂れ流してみるというやり方が採用されることがあるのではないか。
某所にてちらっと見た研究によると、孤独感も社会的孤立も共に健康に悪いらしい。
孤立していても孤独感がなければ大丈夫というような言説は実は誤りという話でもあるようなのだが、実際にそうなのかよくわからない。
社会的孤立や孤独感を解消する働きをSNSが有するかどうかも個人的には気になるところ。
だが孤独感はその性質上主観性(?)が強そうな要素のような気はする。
また社会的孤立といったところでどんな人が何人くらいいて、それぞれとどういう関係を作っているかなどという諸要素まで検討してあるのかなどと疑問が頭に浮かぶ。
恐らくそんなに細かいことまで吟味/検討していないざっくりとしたデータがあるのかななどと思ったが、実際社会的孤立なんてどうやって評価しているのだろうか。
テレビやインターネットの出現以降、見知らぬ人と何らかの心理的な関係を結んで(?)いることなど割とあったりするのではないかなどと思った。
検査は無事終了
https://hanafusa-fukuin.com/archives/28920
↑このリンク先の解釈が恐らく一般的ではないかと思うが、特にここでの弱い時というのは検査の為に食事を抜き、そして下剤を沢山飲んでトイレに通い、漸く全てを終えて疲労と共に家路に就こうとしている自分の姿を指しているような気がした。
弱っている自分が訪れたのは聖堂であり、そこに強さというか自分を励ましてくれる何かを自分は求めていたのかもしれない。
実際、圧倒的な静寂と何処の教会を訪れた時にも大抵感じられる懐かしさ、それに真理の在り処を指すかのように聖堂内に入り込む夕日は自分を大いに励ましてくれたのだから、それを強さと呼んでも良いのではないか。
自分は何かの導きに従ってここへ呼び入れられたのかもしれない、そう思って自信をもって外へ出て行き、歩き出した。
検査は無事終了
大腸内視鏡検査は異常なしだった。
気紛れに、病院に併設されている聖堂を訪れた。
夕暮れの光がそれこそ神々しく場を支配していて、あり得ないと思える位の静寂もそこにあった。
自分は俗世に暮らしているけれど本当は修道院か何処かで暮らしていた方が良かったのではないか、自分は来る道を間違えたのではという想いが脳裏をよぎった。
ふとアウグスチヌスが「取りて読め」という声に従って聖書を開き、所謂"照らし"を受けたという話を思い出した。
こんな時にそういう本を開いたら何処が自分の目に入ってくるのだろうという好奇心から「教会の祈り(聖務日課)」の本を取り上げた。
聖堂の後方の本棚にそれはあって、そこには聖書自体は何故かなかった。
「神こそわたしの逃れ場」……それはそうだが、どうもピンとこない。
暫く頁を繰っているとこれだというような箇所が見つかった。
「弱い時こそ強い」
→
大事な時に一人になりたい心理?
もし自分に何か重大な病気が見つかって誰かに連絡をしておく必要が生じた場合、自分は誰に連絡するだろうか。
多分血縁者に連絡しておくのが筋なのだろうけれど、実はあまり気が進まない。
では他に誰に連絡しておくのかというと、これもまた思い浮かばない。
アウグスチヌスは死ぬ1週間位前から人を遠ざけていたと聞いた事があるのだが、死に至る前であれ大事な瞬間なり何かを迎える前であれ、そういう時には一人でいたいものだと最近よく思う。
もし誰かに会うなら、全くの赤の他人が良いような気はする。
こうした一連の思考の過程にはどんな心理的な背景が潜んでいるのか自分でもよく分からないのが、少し探ってみる価値があるのかもしれないと思った。
フーガ(音楽)を好む。
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