「信じる」という言葉によって恐ろしいほどたくさんの災いが宗教に引き起こされたと私は信じる。歴史的事実の永遠の意味という「パラドックス」やそれに類することに関するあらゆる込み入ったは思考がそうだ。「キリストを信じよ」という代わりに「キリストを愛せ」というなら、
パラドックス、つまり悟性をいらだたせるものは消滅する。悟性をその様にくすぐることが宗教に何の関係があるのだ。(しかじかの人間にとってはそれがまた自分の宗教に属するかもしれないが)
(ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1937.4.19)

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面白い。
がしかし自分がこのトゥートを充分に理解しているとは思われない。
ただ気になる点があったので書いておく。

それは、信じるという動詞は信じているという状態もしくは態度に言及するものであって、恐らくアクティブ(?)な行為/活動を意味してはいないのではないかということ。
状態や態度の表明であって、行為/アクションを意味しないのではということ。

そしてこれは蛇足かもしれないが、信じているかどうかを自ら真剣に評価しようとする時、往々にして上に述べたようなアクティブな行為を意味するかのような信じるという動詞は多分基本的には出てこないものではないかと自分は思う。

そしてもし出てくるのならば、それは恐らく信仰宣言/信仰告白のような場であって、しかもそれは集団として宣言/表明する場ではないかと思う。

なお集団として、というのはどのような個人であっても恐らくその良心は信仰宣言/信仰告白の重みに耐えられないのではないかと思うため。 [参照]

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