罪は、元来いかなる学問にも決して帰属していない。罪は説教の対象であって、説教では個人が個人として個人に向かって語りかけるのである。われわれの時代においては、学者気どりが牧師たちを翻弄して一種の大学教授の助手に仕立てあげるという時流に迎合して、
目下そのような〔学者気どりに感化された〕牧師たちは、自分たちも学問に奉仕し、学問の権威のもとで説教したいという考え方をもつにいたった。こうした風潮からすると、説教することがきわめて見すぼらしい技術だと見なされるようになるのも、別に不思議ではない。
(キルケゴール『不安の概念』緒論)

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