桜が随分前から咲いていたが、漸く4月となった。
入学式までには散っているかな等と思っていたが、案外残っていた。
外へ行くと花見をしている人達がいた。
ブルーシートを敷き楽しげに過ごしているさまを見ると、自分には人々がコロナ禍の前の風景を再現したがっているように感じられた。
前の風景を再現すると言ったがそれは、果たして前のままで良いのだろうか。
ウイルスは消え去る訳ではなく、危険性こそ幾らか減ったであろうものの依然として守られていない人達がいたり後遺症のリスク等があったりするのだろう。
ニューノーマルだとかいう言葉があったと思うが、以前通りに戻すのではなくコロナウイルスの存在を前提として生活を組み立て直していくといった考えの方がより適切なのではないかと思う。
テニスをしていると、上達する前に怪我などによってリタイアしていく人が多いように感じる。
下手だから怪我をすると言ってしまえばそれまでだが、身体の動かし方についての指導や教育といった上達の糸口を掴むまでは負荷を低めて生き残る事を優先した方が良いのではないかと思う。
我流でやっていくには多分テニスというの運動は動きが複雑過ぎると思われるし、負荷は高いと思う。
それでいてあまりにも色々な動き(動いているボールを間断なく打ち続けるetc.)を一人でやっていく必要がある為だろうと思うのだが、中毒性が高いように感じる。
そして動きについての指導を受けられたとしてもその内容が実は不適切である事が多いのではないかと自分は感じているのだが、こういった事は身体の運動についての教育が実は確立していないのではないかという疑念を自分に起こさせる。
>>>「肌の色の違いによる差別はもちろんのこと、肌の色が同じだからこそ顕在化しにくい更に複雑な差別とそれによる健康格差も存在し得る」
https://note.com/hayamikoga/n/n0b4b672bf901
関連して、主に人種間の健康格差について述べたものと思われるこの記事↑を思い出しました。
生活保護の話とは少しズレてはいると思うのですが、単に読み物としても興味深いと思っていたのでご紹介します。
生活保護受給者に対する差別なるものがもしあるのならば生活保護を受給しているからこそ、例えば受けられる医療サービスが限られてくる等の影響を通して健康により大きな損害を受ける可能性があるのかもしれない等とも思いました。
もしかしたら生活保護の方々が受診する病院を集約する事には一定の運用上のメリットがあるのかもと思いました。
(1)例えば医療提供する側が生活保護の人に受診されるのを嫌がるならどうか。
例えば生活保護の人が来る事をイメージダウンと捉えたり、医療機関•他の患者とのトラブルを懸念していたり、生活保護受給者の望む医療を提供するのは困難だと医療機関側が思っている場合など。
(2)生活保護の人達に対する行政•医療•福祉関係の他のサービスを提供する場を集約しておく事は、サービス提供側と享受側両方の利益に繋がるのかもしれない。例えば繋がる場を効率的に提供できるのかもしれない。
栄養指導•精神的サポート•生活一般の相談に応じる人員をいたる所に配置するよりは、少ない箇所に集約しておく事はサポートの為の人員の効率的な運用ならびに利用者の利便性の向上に資する可能性があるのではないか。
(3)生活保護受給者に多い疾患がもしあるのなら、指定された医療機関ではそのような疾患に対してより手厚い対応ができるのかもしれない。
例えば肺結核は多いのかもしれない。 [参照]
複数の良い点があるみたいですね……。
自分は大体マグカップ2杯分くらい飲んでいると思います(インスタントです)。
うつ病予防だとか心血管疾患イベントのリスク低下(確か脳にも言及があったような🤔)は自分としては特に歓迎です。
"コーヒーの健康への効果 毎日飲むと?カフェインの注意点など【医師解説】" を YouTube で見る https://youtu.be/BfFSukROD48
>>>西洋中世社会史研究に北欧神話の分析を取り入れて阿部氏が展開したのは、まず原初段階ではどの文化圏でも「世間」で生きていた人類がそれぞれの歴史の中でいかに「社会」へと移行したか(していないか)という比較史観、であり。
↑これは面白そうと思いました。
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阿部氏とその著作についての知識を自分は殆ど持ち合わせていませんが、最近少しずつ読んでいるハーメルンの笛吹き男に関する本から観察する限りにおいては、本題の周辺を丹念に探索していくうちに本題が新たな意味をもって浮かび上がってくるような浮き彫り(?)的な手法を好んでいるのかなと思いました。
あと、何となくの印象•感想なのですがあまり踏み込んだ表現をお使いにならないような気はしますね……。
あくまで「事物•出来事自体に何があったかを語らせる」という方向性なのかなと思いました。 [参照]
技能実習生とは違いますが、以前ある人物がベトナムからの難民(ボートピープルと呼ばれていた)の支援をしていました。
多分正式に難民とは認定されていなかっただろうと思います。
支援する人達はその人の事をオーバーステイと呼んでいましたが、他の人達は多分不法滞在と呼んでいただろうと思います。
その人が時給200円(?)の仕事をクリーニング屋から貰っていたと聞いた時は少しショックを受けました。
カトリック教会の人達と共産党の支持者であるらしい人達が大いにその人を助けていたようでしたが、草の根の支援の力強さを感じると共にそのような支援活動に必要そうと思われる強靭な精神力•バックボーン•経済的や時間的余裕は誰しも備えている訳ではなさそうと思いました。
また、そのような人(オーバーステイ)を支援しているのが自身の勤め先にバレてしまうと出世に差し支えるのでは……という懸念を耳にした事もあります。
結論やオチは特に無いのですが、もしかしたら「見なかった•居なかった事にしたい人•モノ•コト」が人の心の中のある一定の領域を占めているのかな等と思いました。
働いている留学生らしき人物に従業員番号が与えられていないのを知ってしまったり、技能実習生らしき人物がどうも酷使されているらしい様子を垣間見てしまったり……等と外国から来たと思われる人々に対する扱いは酷いのではないかと思う事があります。
(脱線ですが、ただそれが白人だったらどうなのでしょうか?もうちょっと良い待遇を与えられているのでしょうか……🤔)
また外国にルーツのある日本生まれ日本育ちの知人は職務質問されやすい事を以前嘆いていました(クルマに乗っていると停められるのだとか?)。
もしかしたら日本へどれだけお金を落としてくれるかが関わっているのかもしれません(もしくは日本の発展の為にどれだけ寄与するのかetc.)。
全然まとまりのない話を色々書いてみましたが、いわゆる外国人と見做される人々はいわゆる日本人と見做される人々から「ヨソの人•お客さん•一時的な寄留者」のように扱われているのかも……等と思いました。
前編は以前チェックしていました。
現実からの要請に制度が追い付いていないというのが問題の背景に多分あるのかなと思いました。
現場の困っている感覚をどのように制度へ反映していくのか……が問われているような気がしました。
個人の努力と善意の人々の協力によって乗り切ったというのは美談としては価値が高そうだと思うものの、それらが無くても乗り切れるという現実を前提として作り上げておくのが重要だったのだろうと思います。
行政と現場の間の隙間を協力者が埋めた例かなと思ったのですが、そういう協力者への行政からの各種援助(補助)•資金提供etc.が必要なのかもと思います。
また行政(政治家を含む)が現場から意見を汲み取ったり、現場が行政へ意見を上げたりする仕組みが機能不全になっているのかな……とも思いました。
現場と行政の間のコミュニケーションを手助けする役割を果たす人が求められているような気もしました(ロビイスト(?)でしょうか)。
陳情へ行ったり、意見の吸い上げたりする為にそれらを専門とする人達がいても良いような気がします(既にいるのかもしれませんが)。 [参照]
確かに「眉唾感」がある……と思いました。
ただ宗教•信仰の定義、それにそれらのカウント方法(?)によってもそれらの被認知数は変わってくるのだろうなと思いました。
またもし元の民俗学(?)における研究というものが多種多様性(?)を好意的に評価する性質(というかバイアス?)に支えられたものであった場合、宗教•信仰の数(!)は多めにカウントされてしまうのかもしれません……。
余談ではありますが(以下うろ覚え)……、知人(スペイン出身の司祭だったかな🤔)が「仏教は宗教ではない、哲学だ」といっていたのを思い出しました。
見方によってはそうなるのかもしれません……。
話を戻すと、公的機関に届けられた法人数をカウントする等するのが数の確認方法としては手っ取り早そうな気はします。
(自分は確認していませんが)多分統計を取る機関と取り方の手法の確立、データ等は既にあるのだろうとも思いました。 [参照]
フーガ(音楽)を好む。
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