興味深い記事でした。
以下のフレーズが格好良いな……と思い、惹かれました。
>>>永遠の昼と永遠の夜の中間で「永遠の黄昏」となっている地域では
永遠の黄昏、永遠の昼、永遠の夜……(←復唱しただけです)。
確かに……💦
年齢がバレそうですね……。
2)について、「いずれにしても『権限を奪う』は精確ではないだろう」という指摘については自分も同意です👍(的確なツッコミだと思いました)
多分これは精確ではないような気がしますが……もしかしたら言いたい気持ちが先走るあまり、言いたい内容に合わせて精確さが犠牲になってしまったのたかな等と想像しました。
基本的にレトリック(?)の多い文章であって、色んな題材が出現する割にはあまり展開されていないような気がしました(特に前半部分)。
恐らくもっと長く書いていただければ読み物としてはより面白くなったのではと思います。
意訳(超訳?)しつつ、筆者の意図を汲み取るスタイルの文章だという気がしました。
===
自分の感想としては、「サッカーや他のスポーツの選手は支配側(権力者側?)になっている」という示唆がもう少し強く表現されていればレトリックとしては面白いかなと思いました。
「汚職まみれの一大ビジネス」というフレーズがそれに対応しているのかもしれませんが。
以下、大元らしいトゥートをなるべく好意的に意訳してみました💦
====
人民と元老院の……等と標榜しておきながら(自民党と重ねているのだろうか)、その実はスポーツ(野球•サッカー)という娯楽(狂騒?サーカス?)によって人々から政治参加の権限を奪っている(娯楽によって視線を逸らさせているの意か)。
ローマでは政治参加がない代わりにパンがあったが、本邦ではパンがない。
狂騒を演出した側の野球選手がこうした狂騒を再生産する側である自民党議員にならないのはまだしも幸いである。
===
以上、超訳終わり💦
1)については、少し無理があるものの意訳(超訳的な)を施せばまだ分からなくはない……のかなと思います。
ただ大半の人は理解に苦しみ理路を追えずに脱落しそうな気もします。
2)については、多分筆者は権力者側が用意したサーカスによって踊らされる人達に対して呆れながら、政治批判したかったのだろうと思います。
用意されたサーカスによって踊らされて楽しそう(?)にしてはいても実際にはパンが与えられず実質的は貧しく(?)なっていっているのに(超訳)……といった具合でしょうか。
(続きます) [参照]
変応について復習をしようと五線紙を取り出して主題の類型とその答唱を分類してみようかと思い、少し作業を始めた。
しかし幾らも進めないうちに本棚にMarcel Dupreの教本があるのを思い出し、作業を止めてそれを手に取った。
音大でも対位法はあまり学ばなくなっていると聞いた事がある。
恐らくその対位法とやらも多分声楽的な擬パレストリーナ様式ではないかと思うのだが、そういったものの学習を含め一体どれ程の人が対位法を学びそして「その後も」学び続けそしてその実践を続けているのか……について自分にはあまり情報がない。
フーガを書くのは実質紙と鉛筆だけでできてしまうように思うので、お金の掛からなくてかつ一人でできる趣味として大変良いと思うのだが……。
目が悪くなってきたら止めざるを得なくなるのではないかと、それについては心配に思っている。 [参照]
Twitterではアセクシャルの人達をフォローするアカウントを持っています。
そこでは若い女性が多いような気がしました。
そこでよく扱われる話題というのはセクシャリティ的な何かだけの話ではなくて(性交に関する話は意外と少なかった気がします)、社会における女性の立場を嘆く(?)だとか出産を期待される事への苛立ち(?)、他には結婚を良しとする世の中の価値観(?)への反発だとかそんなものも色々あったような気がします。
そういうグループ内における見解には意外とバラエティが無いような気が自分にはしていたのですが、これは属する人達の年代や性別が多様ではないからなのかな……等とも思っていました。
思潮(?)(誤用でしょうが敢えて)的なエコーチェンバーがそこにはあったのかなという気がしています。
多分平均律は1巻にせよ2巻にせよ、どちらもフーガの仕組みの理解に集中しやすい曲集なのではないかという気がしている。
フーガの技法やクラヴィーア練習曲集第3巻、それにライプツィヒの18のコラール前奏曲、それに教会カンタータなど参考になりそうな曲は沢山あるもののそれらはフーガの仕組み•原理的なもの以外の要素も多く含まれているように思う。
例えば定旋律書法(クラヴィーア練習曲集第3巻とライプツィヒの18のコラール前奏曲)、限られた数の主題に基づいている(フーガの技法)、通奏低音の存在や楽器法(教会カンタータ)など。
この点、平均律には舞曲のリズムの引用という要素が特に第2巻においては更に強く出てきているように自分は感じているのだがそれでも第2巻も、勿論第1巻も改めてフーガとは何かを考えてみる上で基本的な事柄が沢山詰まっているのではないか……と思い始めている。
フーガの主題(主唱)に対する応答的主題(応唱と呼ぶのだったかな)の変化の仕方(変応,mutation?)について、自分が良く理解できているのか疑わしいと最近思うようになってきた。
平均律を見直して教科書的記述と実践の違いを探してみるのも面白いのかもしれない等と思っている。
平均律は弾きはしたけれども、改めて楽譜を見ながら聴き直すという事をしてみれば新たな発見がまたあるのかもしれない。
バッハのオルガン曲やカンタータ、それに他の作曲家の曲の中に対位法的に関する知識を増す為のきっかけをしばらく探していたのだが、灯台もと暗しというか良く知っているつもりだった楽曲集の中に案外沢山の気付きが眠っていそうな事に気付き……平均律を見直す事を楽しみにしている。
自分のコミュニケーション能力というのは恐らく世間的に見れば難ありの部類に属するのであろうから、この世では最早コミュニケーションを取ろうとはしない方が良いと思われる。
やむを得ず何らかの接触を持つ事はあるかもしれないが、自分からはそのような機会をなるべく求めず、そしてなるべく避けておいた方が自他の心理的安全を保つという意味においては適切なのではないかという気がしている。
フーガ(音楽)を好む。
返信がない場合や遅れる場合があります。