過去の作品でシシィがどのように描かれてきたのかを多分に前提とする作品なのでそこの知識ももっとあれば良かったなと思う。『スペンサー』を想起した人もいたみたいだけど自分が想起したのはどっちかというとフローレンス・ピューの『レディ・マクベス』で、あっちはちょっとやり過ぎ(子どもにまで手をかけるので……)だけどこっちはちょっと大人しすぎる気もした。別に絶叫して暴力を振るえというわけではなく、そういう形ではないエクストリームな何かが見られたら良かったなっていう感じ。やっぱ予告が上手すぎるんじゃないだろうか。
めちゃくちゃ細かいことで言うとリュミエール兄弟以前に撮られた映像をなんでシネスコいっぱいに見せてしまうんだろう……とは思った。テレビで見るときを考えたらわからなくもないんだけど。
エリザベート 1878
色々あって100%の状態で見られなかったのが悔やまれるけど主題はもちろん、撮影も陰影をかなり攻めてて良かった。アイコニックなシーンもたくさん。史実と異なるラストは悲喜交々……。
ヴィッキー・クリープスは当たり前のように良いし動画を撮影できる人(『キャメラを止めるな』に出てたフィネガン・オールドフィールド)も短いながら抑えめの演技が光ってた。
ただ予告を見た時に感じた爆発力には少し及ばなかった気がする。予告では夫の机ドン!からのシシィの机ドン!の瞬発力の見せ方に「おっ!」ってなったしドバァと黒い液体を飲むシーンにもその画力に心惹かれた。しかし本編では前者は結構間があったし後者はシシィ本人の望みではなく浮気相手からのじゃれあいに過ぎなかった(シシィの主体性が弱かった?)ので、自分が「このシーンはこういう形で使われるんだろうな」と思った使われ方とは若干違った。(まあ勝手に期待して違ってただけの話なので作品に非はありません)
ゼロの発見(35mm)
監督 杉原せつ
数字の「0」が生まれた経緯をアニメーションで紹介する作品。やけに荒いアニメーションや吹替に笑ってしまった。「0」が生まれる経緯も一切説明がなくインドの人が「う〜〜〜〜ん」と悩んだ後ひらめくだけ。唐突な終わりにも面食らう。
しかしここからが本番だった。この作品は埼玉銀行の出資?で作られた作品でアニメの後に埼玉銀行の短いPR映像がついていて、その露骨さが面白かった。60年代の銀行がどのようなシステムで動いていたのか映像に収められているのは興味深かったし、これまた保存状態(もしくは修復)が非常に良く、カラーなのもあって見てるだけで楽しかった。こういう映像ほどアーカイブされてなかったりしそうなので貴重な経験だった。
冬の日 ごごのこと(35mm)
監督 杉原せつ
あらすじだけなら5〜6歳の女の子がおつかいついでに散歩させてた犬が逃げ出しちゃってそれを追いかけるっていう話なんだけど、セリフが普通に録音されてなくて、映像と完全にはシンクロしてない上に脳内で響いているようなエコーがかかってて、時間を切り取ったというよりは誰かがこの風景を思い出していてそれを見させられているような感覚になる。音楽もやけに不気味で全然美化されてない思い出というか、大人にとっては些細なことでも子どもにとっては大きな不安を感じる出来事だということを表現している気がした。
そして映像のあまりの鮮明さに驚く。1964年の作品なのにめちゃくちゃフィルムの状態が良い。流石に若干のがたつきやチリはあって「昨日撮ったような」とは言えないまでも、カメラを激しく動かしているショットや水面だけを映すショットなどはデジタル撮影したものをフィルム風に加工したと言われても信じてしまいそう。この鮮明な映像が逆にグロテスクさを増すというか、嫌な記憶ほど忘れらない脳の構造を表しているようでなお不気味に感じられた。
国立映画アーカイブの『逝ける映画人を偲んで 2021-2022』で短編集2を見た。
生態系-29-密度3(DCP)
監督 小池照男
上映前に光の点滅に関するアナウンス。以前トニー・コンラッドの『フリッカー』を狭い部屋で見たことあったけどあれほどはキツくなかった。
かっちょいいタイトルからわかる通りガッツリ実験映画で、テレビの砂嵐画面に金属音、ドローン音、雅楽っぽい音などがまとわりついているようのような映像。それが徐々に形を変え音を変えって感じで変化していき時折赤や青一色の画面が認識できるかできないかくらいの短さで挟まったり、何かの写真を砂嵐風に加工したような映像が流れる。それが35分間続く。
タイトルから察すると地球に存在するすべての命や魂をビスタサイズの画面に押し込めてそれを絶え間なく運動させているような、そんな印象だった。人の顔のようなものや映画の字幕っぽいものも見えた気がしたけど、少し目を薄めるだけでも見えるものが変わってくるので自分の見たものに自信が持てない。しかしそれも含めての混沌表現なのかもしれない。
監督なりに環境問題に思うところあって産廃食べて生きる人を出したんだとは思う。汚染水垂れ流す連中に見せたい。ただどうしてもギャグ的にしか捉えられない演出もあって「ブレックファスター・チェア」がどう見ても食事を邪魔してるようにしか見えないとか色々笑ってしまった。
しかし良いと思ったところもあって、それはナディア・リッツとタナヤ・ビーティーによる女性◯◯◯二人組が生まれていたこと。ネタバレになるので伏せるけどあの二人で一本作ってもいいんじゃないかと思うくらい良かった。絶妙な温度感だったと思う。
音楽で言うとハワード・ショアの劇伴は良かったけど何度も同じ曲が流れると眠くなる。耳男が踊るシーンの曲も厳つくて良かった。
クライムズ・オブ・ザ・フューチャー
ここまでやられると別に理解できなかったこちら側も悪くなくない?ってなる。作品内の倫理観が意味不明過ぎて子どもの死体解体ショーは見に来るくせに内臓にタトゥーしてあったら「なんてことだ!」みたいなリアクションしててどういう基準?ってなる。どこかのシーンでハエが飛ぶ音を入れてたのはお茶目な『ザ・フライ』匂わせなんだろうか。「ほら一貫してるでしょ?」ってみたいな感じでやられてもなあ……。
またボディホラー方面のビジュアルとバイオレンス方面のヴィゴ・モーテンセンがついに邂逅したのは面白いけどレア・セドゥ、クリステン・スチュワートとの年齢差がキショい。男性→女性への客体化をひっくり返していると言えるかもしれないけどクリステン・スチュワートが迫るシーンは男性の願望を肥大化させただけとも言えると思う。ヌードになるのも明らかに女性が多いし。年齢差がなければミラーリングになると思うんだけど性別だけ入れ替えてもあんまり機能してない気がする。あとクローネンバーグの描く未来に東アジア系はいない。
鏡・窓と水を使った演出はシンプルに美しいなと思うし2回ある歌唱シーンは良い意味で鳥肌が立った。頭がジンジンした。詩がバトンタッチされていく流れも鮮やか。
あと音にすごく気を使ってる監督だなと思った。ただの足音でもよく聞くとリズムを刻んでたり金属的な音やガラスの割れる音のハイがちょうど良かった。ユーロスペースの音響のおかげでもあるか。パンフでもSEをストックしていった経緯とか語ってたしペーア・ラーベンの音楽も面白かった。
体力が無くて他の作品とハシゴできなかったのが惜しいけどぜひ他の映画館でも特集上映やってほしいし配信でも見たいしBlu-rayも欲しい。プンクテさん、よろしくお願いします!
ちなみにこの作品における「女性」には異性装の人も含まれていた。綱渡りのシーンにいる人はトランス女性として描かれていたような気もする。小人症の人の演出は案内人的な立ち位置だったり赤いカーテンからの登場、この世の人ではなさそうな金属的な足音など、かなりデヴィッド・リンチを意識してしまうものだった。リンチは飛び道具的な使い方をしてしまってる印象があるけどオッティンガーはどうなんだろう。『フリーク・オルランド』ではたくさん小人症の役者が出演してるらしいけど。
また数々の超現実的な演出も好み。冒頭から「ベルリン〜 現実〜 現実〜」みたいな謎アナウンスに始まりありとあらゆる「こぼし方」を見せてくれてそのサービス精神に笑ってしまう。ヨーデルを歌ってる人がいる家に入っちゃうシーンや火に車で突っ込むシーン、「バキューン!」という音と共におじいさん?が倒れ込むシーンは爆笑。やってること自体というより次のシーンに行く時の間が面白い。目のアップとクローズアップを挟むシークエンスとそれを逆にやるシークエンスで挟まれた部分は公園でぼーーーっとしてたら思いついた妄想だったりするのかな?
アル中女の肖像
ウルリケ・オッティンガー
かなり楽しかった。自分は一切お酒飲まないけどプロテストの手段としての飲酒というのは面白い。
基本的には飲み歩く「裕福な絶世の美女」とおそらくは路上生活をしているであろう「貧乏なみすぼらしい女性」の2人組に、統計や学問、良識などの化身として3人組の女性がほぼ常に居合わせる(ついていくのではなく居合わせる、というニュアンス)という構成。「現場」にいる前者と「会議室」にいる後者は基本的には解離してしまっているかのように表現されるけど中盤の「ダンスに誘う」というアクションでその垣根は取っ払われるべきなのではないかと仄めかされる。後者のセリフとしてミソジニーが蔓延する社会を直接批判する手法は変な比喩とか使われるより即効性を優先してるような気がして好き。今も昔も皮肉だのメタファーだの言ってる場合じゃないからな。
また17歳のトビーが男娼として働かざるを得ないという現状に対しての批判的な目線は少し足りなかったと思う。当然セックスワークや男性同士の性行為が問題なのではなく、ティーンが生活費のためにそれをやってるっていう状態を演出するうえで必要な配慮があったのではないか、という感じ。ブリーに気づかれずにお金を作るために客を取るシーンがあったけどあれはスッと流されていいシーンなんだろうか。
こういう点以外にも、子を認知してない親への批判が足りないことや血が繋がっているとわかった途端に家族になることの気持ち悪さ、白人ブレイズのヒッピー泥棒にヴィーガンの設定を与えているなどモヤる点がいくつかあった。トビーの生みの母が自死してしまっていることはもっと掘り下げないといけなかったと思う。彼女にも想像を絶するような苦しみがあったはず。しかしその後のブリーに大きな苦しみや辛い経験があったのも想像に難くないので悩ましい部分ではある。
トランスアメリカ
性別適合手術を控えたトランス女性に息子がいるとわかって……っていうロードムービー。トランス女性を演じているのはシス女性のフェリシティ・ハフマン。このキャスティングは今見るならはっきりと「良くない」んだけどシス男性が「女装」してトランス女性を演じてきたという恥ずかしい歴史を考えればシス女性がトランス女性を演じたことはマシではある、という意見もわからなくはない。キャストで言うと『ジェイコブス・ラダー』のエリザベス・ペーニャが出てきてちょっとアガった。グラハム・グリーンの役も渋くて良い。
映画全体を通して、トランスジェンダーがぶつかる問題を可能な限りリアルに描こうという気概は感じる。トランスセクシャルとトランスヴェスタイトの違いとかも織り込んであったりして2005年の映画にしてはかなり良い方なのかもしれない。しかしどうしても息子にトランス女性だと「バレる」シーンやこどもに「男なの?女なの?」と聞かれるシーンをギャグっぽくしてるところなどもう少しなんとかなったのではっていう演出があるのも事実。トビーがアウティングしまくるのが本当にキツい……。中盤で当事者であろう半役者的な人たちがまとめて出演しているけど「ちゃんと当事者も出演させてますよー」っていう言い訳めいたシークエンスに感じてしまった。
イノセンツ
まずネコへの暴力描写だけど今まで見てきた映画で1番エグいと感じるレベルだった。あのシーンで途中退席する人もいた。正直あそこまでやる意味があるのか疑問なシーンだったし観客を引かせるのが目的くらいにしか思ってないなら他のアイデアを考えて欲しかった。
どうしても全体的に子ども同士の残酷な戦いをみせることが目的化していてそれによって何を伝えたいのかがわからなかった。家庭環境の違いによる人格形成の問題とかをテーマにしたいならあの設定にしないだろうし自閉症で喋ることができない人が超能力で喋ることができるようになる、という展開も無邪気にやっていいことなのか疑問。もっと慎重に扱うべき表現だと思ったけど。
ただ映像の質感とか音楽の使い方とかはとても良かった。編集は中盤に「この能力はもうさっき見せたのと同じようなもんだから改めて見せなくてもいいのでは?」みたいなところがあったけどそれくらいで基本良い。エンドロールも一捻りあっていいんじゃないでしょうか。
自分が基本的に子どもという存在を使って色々な要素にバフをかけるようなシナリオに心が乗り切れないのもあってなかなかしんどかった。見ている時の一瞬一瞬の「怖い」とか「嫌だな」っていう気持ちが作り手によって操作されてるような感覚になる。
ミンナのウタ
弁当を汚く食い散らかす、ゴミを自分で処分しない、女性で年下だと名前で呼ぶ、同じ階にいるというだけで誘ってると勘違いする(冗談だとしてもカス)とマキタスポーツがクソジジイフルコースだったのでよしよし八つ裂きになるんだろうなと思っていたら最後まで襲われもしないのが一番怖かった。ただでさえムカつくやつなのに演技巧者でもなんでもない無の演技してて倍ムカつく。なぜか邦画界では重宝されてる感じがあるけどオッサンがオッサンとしてそこにいるだけ。BSだかなんだかのカセットの番組ともかかってるのかもしれないけどどうでもいい。
それは置いといたとしても何がしたいのか・言いたいのか終始わからずジャンプスケアに頼ったお粗末な脚本でめちゃくちゃシラけた。そもそも最初から編集が変。メンバー紹介みたいなやつ挟むのタイトル後でいい。
一番酷いのが種明かしの部分。あんな変なコードの引っかかり方してたら「よしわかった!」つってオーエスオーエス引っ張らないだろ。期せずして娘の自死を手伝ってしまったっていうシチュエーションを作りたかったんだろうけどいくらなんでも無茶苦茶過ぎる。ここだけで-100点。あの場面の前にドアが吹っ飛んでるシーン挟んじゃってるのも意味わかんないし。全体的に何をどの順番で見せるかが全部ズレてた。
ビリヤニなかなか食べられないので見た目が似てた惣菜のカレービーフンをスーパーで買ったらなんかすごい美味しくて満足してしまった。