アドルノは自我に関する理論において、二つの考えの間を揺れ動いている。一つは自我というものは廃絶されてしまっており、支配者に管理されるアトムとなった人間たちという考え。もう一つは、弱体化してるとはいえ自我は存続しつづけているのだが、しかし自分の身を守り無力な状態を抜け出そうとして、ほかならぬ当の権力と一体化してしまい、自律について考えることすら放棄することになるというもの。後者の考えに立脚する場合、この弱体化した自我について、「大衆心理学と自我分析」というフロイトの研究にかなり依拠しながら「集団的ナルシズム」にかかわっているという診断、またアンナ・フロイトが行った自我の一定の防衛形成の解明をわがものとしつつ「攻撃者と一体化」しているという診断をくだすのだ。それはまさにフロムが『権威と家族に関する研究』から『自由からの逃走』において、〈サド-マゾヒズム的性格〉あるいは〈権威主義的性格〉と呼んで分析したものであった。
社会研究所内のニーチェ批判(物質的欲求の充足を目指す社会的革命への実践的志向や勇気の欠如といったマルクス主義寄りの批判が大勢を占めた)の論陣に対し、ニーチェの文化批判を擁護するアドルノには市民→民衆→大衆というコースを辿るアメリカ社会の現実が念頭にあり、民主主義や社会主義といったものが政治的利害を代弁する宣伝手段といった意味での「イデオロギー」になってしまった今、意識に燃えたプロレタリアートによる、社会体制の全面的改革など一種の偶像崇拝であると批判者のマルクス主義的認識を斥ける。アドルノから見たニーチェの「超人」概念は、全体主義、独裁主義的なカリスマ的権威を指すのではなく、絶えず自己の限界を超えていく自己超越、自己克服能力の持ち主のことを指す反省的な主体である。
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こういう問題を「上/当局からの押し付け」と枠付けして「それに負けない俺たち」の反発を動員する動きは、日本ではいわゆる「表現の自由戦士」と言われる一群にも見られます。そして、キャンパス内の学生の言動にも、それと同様のものは、すでにはっきりとあらわれています。
したがって、「大学((中枢?良心的教員?本部?当局?)が推進する性差別是正を大学自治が阻んできた」という図式は、現在の大学それ自体をめぐる政治風土を考えても望ましいものではありませんし、現場レベルでのキャンパスの女子学生やフェミニズム団体にとっても支えにはなりません。
現実には、学生自治の枠組みの中で粘り強く他の学生たちへの説得を続けてきたフェミニストの学生たち、それを受けて自治会として性差別是正やD&I推進に取り組もうとしてきた学生たちもいるわけです。
むしろそちらに目を向けませんか、とわたしは言いたい。
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現代思想2024年2月号の小田切拓氏の論考で引用されていたイスラエルの運動家Jeff Halperの記事。"イスラエルが、兵器や抑圧方法といった自らの行う占領を、それを喜んで迎え入れる顧客であるアメリカやヨーロッパの軍、安全保障機関、警察に対して輸出するのと同じように、国際人道法を効果的に操る専門技術やその効果的なPR技術を輸出しているのだ"
バトラーが「自分自身を説明すること」の注で紹介していたThomas Keenanの「Fables of responsibility」面白そう。邦訳出してー。
精神科病院の看護助手や派遣バイトで税金や中退した大学の奨学金を払いながら本を読んだり絵を描いたり音楽を聴いたりしています。