欲望機械は新たな流れを生産するためにひとつの流れを分断する。新たな流れはさらに新しい流れを生産するために次の機械に分断される。それぞれの機械が部分対象──乳房=機械、口=機械、胃=機械、腸=機械、肛門=機械──である。そして次の機械が求める流れをそれぞれの機械が生産していくことで、これらの機械の接続が加速されていく。ドゥルーズとガタリにとって重要なのは、流れ、接続し、生産するこの機械の論理なのである。というのも機械の論理は、伝統的な精神分析では想像の領域のものとされてきた幻想と欲望──無意識、夢などに現れるもの──に取って代わって、それらを物質的な領域に落とし込むからだ。それは現実の領域で起こるものになったのである。こうして、クラインやフロイトには部分対象の活動を象徴的なものとして語る向きがあるのに対して、ドゥルーズとガタリはそれに異議を差し込むために、また、機械生産のリアリティを強調するために、「部分対象」を「欲望機械」と言い換えるのである。