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死ぬまで現役のつもりでいるけど、今のフルタイムの仕事を引退したらやりたいのが旅行。有休の数とかタイミングとか一切気にせず、暮らすように旅行ができる。そのためには世話をしなくてはならない存在を無くさないとならないので、まだまだ10年以上は無理だと思うけど(息子たちより今一緒に暮らしてる犬たちや猫たちが皆他界するまではその位かかるだろうし、世話する植物たちだって少しずつ減らしていかないと、だからね)。

あの国に暮らしている知人友人が多いのでとても言いにくいのだけども、あの国の政府ほど欺瞞と偽善に溢れて信用がならないのも、そうそう無いと思う。理想は分かるけど、現実があまりにも遠く追いついていないのに、自国のそういうところは置いといて、他国にはまるで自分達こそ高潔の正義溢れる、世界の政府のお手本か何かのように高飛車に振る舞うところもいただけない。

そして、特にアジア圏で顕著に見られる子供への親たちの期待って、まだまだ「子供本人の幸せ」より「親が思う成功」の形にどうしても固執・集中し勝ちなんじゃないかな、と。どうしても、まだまだ儒教的な「子供は親のために孝行せねばならぬ」ということで、子供の人生が子供自身のものではないように扱われている。親だって、かつては自分自身その子供の立場にいたはずなのに、その悪循環、負の連鎖を断ち切ろうとなかなかしない。

子供の人生は、子供本人の、個人の人生だよ。親として出来ることは、彼らが無事巣立ちして、ちゃんと自分自身の翼で自分自身が飛んでいきたい所へ行けるまでちゃんと成長して、自分の人生を生きていってくれること。これ以上の親孝行なんて他に何もないと思うんだけどな。少なくとも、私はそう思ってる。息子たちには、大人になったら、親がいなくなっても元気に自分の空を自由にどこまでも飛んでいっていける大人になってほしい。ただ、それだけ。それだけで十二分。

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息子たちには「彼らなりの情熱をみつけて、彼らにとって充実した幸せな人生を叶えてほしい」とは思っているけど「成功してほしい」とはこれっぽっちも思ってない。成功と幸せは、ぶっちゃけ「真逆」だと思っているので。何を「幸せ」と思うかは人それぞれなので、もし「成功」がその人の「幸せと充足」に直結しているのなら、それはそれで勿論申し分ないのだけど、今の世の中におけるいわゆる「成功」って、そのほとんどは「人間としての、個人としての、幸せと充足」を相当犠牲にしないと叶えられないものばかりのように思えるから。

何でも安けりゃイイってものでもなくて、逆にあまりにも安いと「コレを生産するために、私の手元に届くまでに働いた人たちにはちゃんと真っ当なお給料が支払われているんだろうか」と、まずそっちの方が気になってしまう。だって私の手に届くまでに色んな手を渡ってきているはずで、全ての段階で支払いがあったはずなのだから。それなのにもの凄く安いって、つまり搾取されている人々がいるってことな訳で。

後10日ほどで3月も終わってしまう。ちょっと焦ってきた。色々、いろいろとスピードアップしないとまずいな。

日本の国立大学の年間学費をチェックして、ちょっと軽くショックを受けているなど…

イマドキの子(つまりZ世代)って、教育レベルは結構高くて、頭は決して悪くないし、デジタルネイティブだし、意識も高い(特に人権問題や環境問題に関して)んだけど、なぜか「教えてもらわないと分からない」傾向が強い気がする。つまり、手軽に情報が得られなかったり、与えられなかったりすると、もう何をどうしたらよいか分からない。どうしたらよいか、自分の頭で論理的に結論づけるために必要な情報は十分もっているはずなのに、自分の脳のそういう自発的な使い方が分からない、みたいな。その位、ちょっと頭を働かせればわかるよね?みたいなことも、言われて初めて「ああそうなんだ」となり勝ちじゃない?

我が家、やはりもう2部屋は必要だよなぁと思うのだが、この家を改装して2部屋作ることは物理スペース的には可能でも、作業にかかる時間とコストは勿論その間の諸々を考えると…うん、今のままでなんとかしよう、という方に皆落ち着いてしまうのよね。後数年もすればもう1部屋空く予定ではあるし(ぇ。

どれだけ素晴らしい人格者でも、どれだけ素晴らしいアイデアでも、どれだけ素晴らしい思想でも、どれだけ素晴らしい宗教でも、この世の中で「すべての人」の賛同や賞賛や支持を得た、という人も思想も政策も信仰もどこにもいないし、どこにも存在した試しがない。一貫して、徹頭徹尾、常に正義の側に立ち続けた人や思想や団体や組織も、ない。少なくとも西暦に関しては、そのポイントゼロ地点でこれを痛いほど思い知らされているはず、なんだけどねぇ人類は 🙄

何というか…どうも世の中、あのトピックに関しては「ゼロかオールか」みたいな極論ばかりで、バランスの取れた言説がどこにも見受けられない。或いは、バランスのとれた言説があったとしても両陣営からアンチ扱いになって攻撃を受け、一方的に決めつけられて「キャンセル」されてしまうと言った方が正確かもしれない🫥 このトピックに関しては、皆があれほど崇めて絶対視してきた「言論の自由」はどこにも無いようで、最近余計にうんざりしてしまうんだな 😮‍💨

毎日大したこと出来てないのに、時間の過ぎるのばかりが早い。1週間があっという間。1ヶ月もあっという間。1年も……(以下自主規制

かく言う私は、実は、いわゆる「テレビ(番組)」ってヤツはもう、日本を出た1993年以降、観ていないのだけどもね。最近は他にいろんなオプションがあるから、オンデマンドやストリーミングのコンテンツを自分で選んで、観たい時に観る、ことはあるけれども。

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当たり前のことを書くようだけも、普段テレビのようなメディアで何を観ているか、で見えてくる世界が全然違ってくるし、ひいては世界観や考え方さえも全く変わってしまう、と改めて思い知らされた。何をどう(何語で観るかも含め)どれだけ観るか、で世界観が全く変異なってしまうから、たかがテレビ、たかがメディア、たかがエンタメなどと決して侮ることはできない。ある意味、毎日の食事と同じ。何をどうどれだけ食べたかが自分の体と健康にそのまま反映されるのと同様、何をどれだけどう観た、接したかが全て、自分の精神と思考と人間性に反映されてしまう。

右でも左でも上でも下でも何でも、ともかく「極端は敵」というのが私のスタンスです。

結局そういう国で、そういう社会なのよね。喉元過ぎれば都合の悪いことはすぐに忘れて、同じ轍をガンガン踏みまくる、みたいな。

今の世の中、あまりにもいろんなことが複雑化?していて、やろうと思えばやらなきゃならないことは腐るほど、いくらでもある。でもあまりに「あり過ぎる」から通常の人間のキャパでは追いつくことができなくて、だからついSNSやストリーミングの世界に逃げてしまうのよね。

どっちにしても極端な言論というは非現実的で、非論理的である意味において同室で、不毛なんだよね

結局人間の社会は、人数が増えれば増えるほど、広がれば広がるほど、「修羅」ってことでFAかな…

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