ここ1年近く、ほとんど全く物欲を感じずに暮らしてきたのに、最近またふつふつと湧き上がってきている気がして、気が滅入っている。恐らく何等かのストレスが原因だと思うけれど、私の人生における最大のストレス要因は9月末に、基本私の日常から取り除かれたも同然なのに、何故だろう。今、私はこれまでの人生である意味最もストレスフリーな状態にあるはず、なのにな~。

うーーーん、自己嫌悪。こういうのもやはり子供時代のトラウマを引き摺っている、と言えるのかな。自分としてはもはや乗り越えているつもりだけど、外傷と同じように、例え怪我は治っても、怪我が酷ければ酷いほど、傷や後遺症が本人の意思とは反して多少残ってしまうのはどうしようもないことなのかも。

さっきまで突然思い出したように『マトリックス』観てたのだけど、スミスが言うとおり、人間はこの世界の癌細胞以外何者でもないわ。良くも悪くも、人間的である、ということは「人工的」であることで、「自然」とは相反する存在な訳であるし。そして、自然をどんどん食い潰し侵食して、宿主である「自然」を殺してしまうまで、膨大なサイズに増幅し続けているわけだから。それによって自分自身も滅亡することになることが分かっていても。

思うところは数多くあるし、色々読み漁って、自分なりの考えを(改めて)構築しつつあるけれども、結局私には完全な真実はわかり得ないし、学んだことと現状の時差はどうしようもないし、自分自身が経験している訳でもない現状について、蚊帳の外の安全圏から誰が悪いの、何がどうだの、こうすべきだっただの、口を出せる立場でもない。なので、もう何も口にしないことにした。「口にしない」「意見を言わない」イコール「他人事」「何も考えていない」「何もしない」ではない。ただ、こういう状況で私は「声だけ大きい外野」にはなりたくない、というだけのこと。引き続き、観察と勉強、そして私に出来る支援に勤しむつもり。

最近、意図的に1時間早めに前倒し操作してるシンガポールの時間帯が軽くストレス。実際より1時間早めにしているから、朝7
時を過ぎないと明るくならず、それより早めに行動が開始できないため、朝の時間を思うように効率よく使えない。一人暮らしだったり、オットと別寝室ならそれでもいいかもしれない。朝日を浴びないと体が起きないわー、というのはあるかもしれないけど、暗い中活動開始しても問題はない。

最近諸事情から朝5時半前に目が覚めるのだけど、オットの睡眠の邪魔をしないために明るくできないし、バタバタ動き出すのも無理。まだ外真っ暗だから、朝散歩に行くのも難しい。

私にとって、朝はがっつり色んなことがこなせる貴重な時間帯なのに、朝7時を過ぎないと1日を開始出来ない!つまり正午までたったの5時間しかない!というのが、小さいことながら積もり積もって、ストレスになってきているのです…。本来ならまだ午前6時のはずなのに…そしたら正午まで少なくとも6時間あるのに……😓😓😓

「ガチャ」という言葉も表現もあまり好きではないが、いわゆる「ガチャ」の結果は自分の責任ではないので何とも思わない。単に運が悪かった、良かった、だけの話だ。それは本人の、自分自身の功績でも失態でもなんでもない。私が気にかけるのは、自分自身の意志と力で選び取ったものや事柄だけだ。何故ならそれは、それを選んだ自分自身の、自分自身だけの責任だから。

リアルな知人・友人でも、リモートでメッセージやり取りする際の距離感って難しい。50代になってもこれは変わらない。忌憚なく何でも言い合える悪友とかなら、気が向いたら深夜でもメッセージ送れるけど、正直そういう「悪友」は1人か2人くらいしかいない。いや、厳密には1人だけか 🤔 元々友人、知人+(知人以上、友人以下)の数が極端に少ない私だから余計にそう感じるのかもしれないけども。

何事も、内側から見るのと外側から見るのとでは、見え方が違う。ベストは両方からの視点を持つことだけど、全知全能でもないのに、この世の全てにおいてそんなことができる訳がないので、少なくとも「自分の視点は限られている」という認識を常に持って物事を眺めるようにするのが、最低限私たちにできることなのではないだろうか、と思う。

今読んでる本に「自分に甘くではなく、自分に優しく」とあった。これ、似ているようで全く異なることなのよね。そして、自分を甘やかすことは簡単だけど、意図的に「自分に優しく」することって、とっても難しい。

私は自分の父と母には結構手厳しい。でもそれもこれも、彼ら自身が、私が子供の時に教え指導し、躾仕込んだものだから、ある意味「自業自得」だと思っている。

そういう意味でも将来、自分が教え躾けたものにブーメランされないよう、いや、されてもちゃんと受け止めて立っていられるよう、今から根性と覚悟入れて歳を重ねるつもり。

自分が言った言葉もやったことも、その意図の善悪は関係なく、何もかもすべていずれは自分のところに戻ってくるものだから。

生きている、だけでなんでこうもしんどいのか。年をとって、元気に黄金の引退生活を満喫している人々を見ると、とてもかなわないと毎度思わされる。

『AIに負けない子どもを育てる』というタイトルの書籍を見かけたけど、そもそも AI に対抗しようとするのは無理があるんじゃなかろうか、と思ったり。AI に出来ないことをやるのが人間では。

何かを「買う」というのは、コミットメントする、ということなのよね。と、突然思ったなど

「(自分たちにとって)都合の悪い、見たくない事実・現実は、ありとあらゆる手段を使って無かったことにする、その為ならどんな努力も苦労も犠牲も惜しまない」のよねぇ。

簡素化、簡素化、もっと簡素化。これからの私の人生指針は、これしかない。もっともっと簡素化する。減らす。片付ける。整理する。何はともあれこれを基調で。

あーちょと自己嫌悪な午後だったな…😮‍💨

まぁどの国も、自分がやらかした黒歴史については、自己正当化して見て見ぬふりしがち、無かった事にしがち、なのよね。自分たちの恥だから。笑ってなかったことにしたい。直視したくない。他人の恥、自分が受けた痛みと被害については何としてでも暴いて語り続けて「決して忘れない」のに。

そしてそうやって「歴史は繰り返し」ていくのよ。同じ過ちを、何度でも。人間はどこまでも、愚かだから。

温暖化時代を越えて、沸騰時代か…私たちは沸騰している

今朝、ふと「あと10年しか残されていない」という声が聞こえた、というか、言葉が突然浮かんだ。あと10年。長いようでいて、短い時間だ。そして、たった10年間で、すべてが変わってしまうだろう。あと10年。なにが「あと10年」なのかは分からないが、あと10年しか、ない。

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