近藤銀河『フェミニスト、ゲームやってる』
フェミニズム・クィアの視点からの鋭いゲーム批評であり、本書を読むことでゲーム体験への様々な可能性も広がる、ものすごく前向きな気持ちになれたエッセイでした。
ゲームとはプレイヤーがルールとやり取りをして主体的に物語を作り出すものだからこそ、ゲームのクリアに失敗すること(差別や排除のシステムのためにプレイを断念する意味です)は、それ自体がプレイヤーにとってのエンディングの一つであり物語となりえると示した上での、「それは世界を覆う規範や差別へのささやかな抵抗でもある。」という近藤さんのメッセージ、多くの人に伝わってほしい。
ゲーム作品ごとのエッセイとは別に章ごとのコラムがあり、ゲーム内で再現されるレイシズムに反して語られないセクシズムについて、ゲームと能力主義への疑問、ゲームにおける障害の描写やアクセシビリティのこと、オープンワールドの排除の仕組みについてなど、これらの論考ひとつひとつが素晴らしかった。
『柚木麻子のドラマななめ読み!』
柚木麻子(フィルムアート社)
私は日本のドラマに疎く本書が取り上げる作品はほぼ未見なのですが、この数十年での日本のドラマにおける人間と社会の描き方の変遷が見えて面白かったです。
そして今年の朝ドラ『虎に翼』に衝撃を受けた柚月さんが最後に、本書で取り上げた自分の愛するドラマについて、これらの作品がなければトラつばは生まれていないし貴重な灯火であったとしながらも、しかし「あくまでも既存のルールの中で、せいいっぱいフェミニズムを感じさせてくれた愛しいドラマ達であり、フェミニズム作品というのとは、違っていたのだな、と気付かされて、ハッとしている。」と書いていたことを読了後に何度も思い返している。
「『虎に翼』以降、明らかにドラマが、いや、日本そのものが変わるだろうな、という確信があり、リアルタイムで立ち会えたことを幸せに思う」とも。
本当に、社会問題から一歩引いたスタンスを取ることを良しとする制作側の意識が変わってほしいし、変化への希望を感じもするけれど、すでにバックラッシュが激しくなってきたように感じることも多くて辛い……。
『エブリデイ・ユートピア』
クリステン・R・ゴドシー/高橋璃子 訳
住まいや子育てや学校教育の役割をめぐる、過去2000年以上にわたるユートピア思想と実践の歴史を振り返りながら、今ある社会の規範に縛られない暮らしを目指す試みについて論じる本。
それは女性に家事や育児や介護などのケア労働を強いて、経済的自立を阻んできた社会構造を変革することに直結している。
「変化は危険だ」と言い立てるイデオロギーから、自分たちの手に政治的想像力を取り戻そう!という前向きなメッセージに溢れていました。
読みながら、私が求める生活スタイルは、社会が「普通」とみなしてきた文化的規範に実はめちゃくちゃ影響されているのだな……と気づきました。
ただ、この後天的好みを変えるのはなかなか難しいなあとも。でも、できることを少しずつ。
昨日はつらい選挙結果が出たけれど、週末に読んでいたクリステン・R・ゴドシー『エブリデイ・ユートピア』に、「社会を覆う冷笑と無力感を、私たちは断固拒まなくてはいけません」という著者のメッセージがあり、私もちゃんと踏ん張ろうと思えました。
楽観論や自己啓発的なポジティブ思考としての「ユートピア」ではなく、未来を変えるためのラディカルな希望と実践を論じる本で、訳者の高橋璃子さんのあとがきも良かった。
「むしろ絶望的な状況のなかで要請され、閉塞を突き破る力となるのがユートピア思想であり実践です。
絶望の可能性に満ちた場所においてこそ、自分たちだけでなく未来の若い世代のために、私たちには希望を選び取る責任があるのだと思います。」
フォロワーさんがトゥートされていた、ノンバイナリーを自認する方たちの中でもジェンダー・アイデンティティは個々に異なるため、その概念を理解されづらいことは、マイカ・ラジャノフ&スコット・ドウェイン『ノンバイナリー 30人が語るジェンダーとアイデンティティ』でも、それゆえの困難の体験をほとんどの人が語っていました。
この本を今年の始めに読んで、私が理解していたつもりの「ノンバイナリー」の概念は、実存するノンバイナリーの人々の生を表していなかったんだな……と思い知ったことを思い出しました。
そしてノンバイナリーの人々の中でも、人種や生まれた時の性別や自己表現のスタイルによる差異を理由に、世間からも当事者間においても差別や格差が存在していることを指摘する書き手もいました。
都会の、白人の、「中性的」な外見を持つ人でなければ、「ノンバイナリー」のラベルから排除されてしまう。あなただってノンバイナリーと聞いて「ティルダ・スウィントンみたいな人」を想像してはいないか?と。
「“猫”は高級車を指す隠語」が話題だからと、猫飼いの方たちの「うちのレクサス🐈」的なポストを目にするのがちょっと嫌というか辛い……。
一緒に暮らしている大切な猫さんを、闇バイトの文脈から来たレクサス呼びして楽しむ感覚が分からなくて。
当初の文脈は早くも失われた上でのネットミームとしての投稿なのは承知していますが、私の中では全然まだ犯罪とガッチリ結びついたヤバい話題のままだから、社会問題になっている犯罪を想起させる言葉とのギャップを感じて、毎回しんどくなってしまう。
石井千湖『積ん読の本』
私も初読時の感覚がどうだったのかをできるだけ残しておきたいので、小川公代さんが「時間が経っても初読の感覚を取り戻せる」ように付箋の色ごとに意味を決めて貼る方法を全ての本に適用しているお話や、本の余白にメモを書き込みながら本を育てている山本貴光さんが「初読のときにしかできない要約がある」と話していたことが印象に残った。
それと電子書籍よりも紙の本派の池澤春菜さんが、その理由に「紙の本ならどこに何が書いてあるか頭に入っているから、後で引用したい部分もすぐ見つけられる」と話していたが、これはすごく分かる。
私も本を開いて文字を追っている状況丸ごとの映像記憶として本の中身を覚えているので、どこの記述かは紙の本でないと分からなくなる。
作家や書評家など12人への「積ん読」インタビューを集めた、石井千湖『積ん読の本』が面白かったです。「積ん読」を煽るような内容ではなく、「本を読むこと」についての真剣な話が収められていたので安心した。
それぞれの個性的な本棚や思い出深い本など、たくさんの写真を見ながら読む、オールカラーの楽しい本でした。
「あなたにとっての積ん読とは?」
「なぜ人は積ん読してしまうのか?」
という問いかけを切り口として見えてくる、それぞれの本の読み方、本棚の構築や分類方法、本を読む上でその人が何を大切にしているのか、本を読んでいる時の自分に何が起こっているのか?等々、皆さん全く違う考え方やスタイルが分かる様々なお話を読めてすごく面白かった。
今日初めて脳MRIを撮ったのですが、私はこの検査ダメだ、苦手だった〜😵「音がすごい」は有名だけど、想像していた騒音とは違った……。長いし、寝れる方は羨ましい。
耳元で道路工事をしているような序盤は平気だったけれど、その後が本番で、いろんな不気味な電子音を様々なテンポで大音量でぶつけられるのを耐えるのが超怖かった。
中盤あたりにはガンガンと体にひたすら打撃を受け続けているように感じる音と振動もあって、拷問の擬似体験をしている感覚になってしまった。
閉所や大きな音が苦手な方は、本当にキツイと思う……。
ヘッドホンでヒーリングミュージックが流れてるのだけど、もっと気分が上がる曲を自分で選んで検査受けたいよ〜!
とはいえ、どっちみち検査が始まると音楽はほとんど聞こえませんでしたが。
10月に買った本。ALTにうまく入らなかったので…
◆『MONKEY』vol. 34/特集「ここにもっといいものがある。」
◆『積ん読の本』石井千湖
◆『その子どもはなぜ、おかゆのなかで煮えているのか』アグラヤ・ヴェテラニー/松永美穂 訳
◆『二階のいい人』陳思宏/白水紀子 訳
◆『楽園の夕べ』ルシア・ベルリン/岸本佐知子 訳
◆『危険なトランスガールのおしゃべりメモワール』カイ・チェン・トム/野中モモ 訳
◆『ターングラス』ガレス・ルービン/越前敏弥 訳
◆『わたしたちが光の速さで進めないなら』キム・チョヨプ/カン・バンファ、ユン・ジヨン訳
◆『システム・クラッシュ』マーサ・ウェルズ/中原尚哉 訳
◆『ほんとうの名前は教えない』アシュリィ・エルストン/法村里絵 訳
◆『台湾人の歌舞伎町 新宿、もうひとつの戦後史』稲葉佳子、青池憲司
◆『ネット怪談の民俗学』廣田龍平
◆『ホラー映画の科学』ニーナ・ネセス/五十嵐加奈子 訳
◆『言葉の道具箱』三木那由他
うちの金沢市(石川1区)は接戦の末に自民が当選となって辛いけど、それでも常に20時ゼロ打ち当確が常識のスーパー自民党王国のこの金沢で、昨日は24時まで選挙結果が出ないなんて、これまではありえないことだった。
変化を諦めてはダメだなと思えた。
とはいえ、もうずっと本当の意味で「自由な選択」として投票できてない状況が続いているのが嫌すぎるし、左派とは全く言えない野党と議員(立憲も含む)の躍進は怖いしで、今後がすごく不安です。
読んだ本のことなど。海外文学を中心に読んでいます。 地方で暮らすクィアです。(Aro/Ace)