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12人の作家や詩人たちがセウォル号「事件」についての思いを寄せた、『目の眩んだ者たちの国家』(新泉社)を読み返していました。
韓国文学には「社会を善きものにするために文学がある」という思いが根底にあるという、斎藤真理子さんの言葉を実感するような本です。

2014年の文章だけれど、社会に対してどこまでも主体的であるがゆえの眼差しと自省の言葉は、当時のロウソクデモへと繋がるうねりだけではなく、現在の韓国市民一人ひとりのアクションに真っ直ぐ通じているのだなと感じる。

「「理解」とは、他人の中に入っていってその人の内面に触れ、魂を覗き見ることではなく、その人の外側に立つしかできないこと、完全に一体にはなれないことを謙虚に認め、その違いを肌で感じていく過程だったのかもしれない。
そのような理解が、傾聴が、共感が、この危なっかしい傾きという問題の答えを見つけなければならない私たちの世代に必要なことであり、(中略)一番初めにすべきことだったのかもしれない。」

「そのとき、誰かの話を「聞く」ということは、単なる受動的な行為にとどまらず、勇気と努力が必要な行為となるだろう。」

──キム・エラン『目の眩んだ者たちの国家』より

「毎日のニュースを読んでいると、病気にかかっているんだと実感する。政治の世界にも、私たちの日常にも、人を傷つけて平気でいる破廉恥が蔓延し、それで傷を負っても当たり前のようになっている世の中を私たちは生きている。
傷ひとつ負わずにきっと報われるだろう、答えてくれるだろう、と思ってしまう信頼のようなものを、私は言じない。
傷ついてもいい。それを耐えて、何かを信じてみること。」

──ファン・ジョンウン『目の眩んだ者たちの国家』より

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