日記:SNS 

 SNSで本音を吐き出すのが苦手で、取り繕った自分でいるほうが精神的に楽だと思ったのがSNSを使い始めて10年くらい経ってからだった。
 初期のSNSーー例えばmixiや旧Twitter、Instagram等ーーはどちらかといえばその逆で、「普段は話せない本音もSNSだと話せる」と思うことが多く、またそれ故に共感や抵抗も同じくらい強く感じていた。同じことを感じる人に喜びを覚えたり悲しみを分かち合ったり、かと思えば「わかってくれない」と感じ勝手に憤ったり落ち込むこともあった。SNSでは「本当の理解者」が見つかるような錯覚に陥っていたのだと思う。
 けれどもある日、そうやって「本当の自分」だと思っているものが否定されることが怖いと感じた。そしてそれが引き金となり、共感だと感じていたものが思い込みのエコーチェンバーにすぎないものであったり、あるいは真に共感であったとしてもその共感があることでぬるま湯につかることが怖い、と感じるようになった。自分が律せなくなるような気がしたのだ。
 今のSNS生活では仮面を被っているわけではないが、かといって本音も出しすぎないようにしている。共感することがあっても深入りもしない。
 少し寂しさもたまに感じるが、渋いのは紅茶だけで充分なのかもしれない。

日記:gwの食事と固定概念について 

(承前)
結果として主食は「なくても全く問題なかった」のである。
確かにあった方が美味しい時もあった(ごぼうのピリ辛甘酢あんかけ炒めを作った時はお米があった方がいいと思った)。しかし、食事において一汁三菜が理想というわけでもないと感じたあの日のように、主食もまた「おかずの一つ」でしかなかったとようやく自分の中で昇華されたのであった。

GW中は蒸し野菜や蒸し鶏、スープ、ホイル焼きなどをよく食べた。普段より手がかからなかったのに、品数は多かった。せいろやレンジ、トースター、オーブンをうまく使いまわせたからだろう。
ドレッシングが苦手だったのもやめた。蒸し野菜にごまだれをかけるのは美味しかったし、準備も楽だった。蒸した芋は甘くて美味しかった。
ただそれだけのことが、もうX歳になる自分にとってはとても新鮮な体験だった。

歳をとると変わることは難しいという。実際に自分でも柔軟性に欠けてきていると感じるときがあるし、気を抜くと自分の経験を軸に新しい価値観や出会ったことのない知らない考え方、生き方を「否定(悪意を持たない無関心も含む)」することがある。
だけどまだ自分は変わることができるし新しく学ぶことができる。そしてそれをこれからもできる限り謙虚に繰り返していきたい。

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日記:gwの食事と固定概念について 

決められたことを決められた通りにやらないと気持ち悪い人間で、大学院時代は朝5時に起きて毎日同じ朝食をとり、毎日同じ昼食と夕食の準備をして、自転車で研究室に行き、朝6時から夜10時まで勉強をして、帰宅したら20分の踏み台昇降のちに風呂に入って翌日のお米を炊飯器にセットして寝る、を2年繰り返した(フィールドワークは別)。土日もお盆も正月もGWもである。当然周りからは機械だと言われた。なおメンタルは機械ではないので、ただ自分が定めた「こうするとやりたいことがうまく回る」の通りに動かないとムズムズするだけであって、何を言われても何も思わないどころか言われたことを解釈しすぎてとにかく繊細だった(今も繊細ではあるがあの頃のような壊れやすさはないと自負している)。

さて、そんな人間であるため、結婚してからは長年食事とはかくあるべしという思い込みが1つあった。それは米でも麺でもパスタでも主食がなくてはいけないというもので、外食や出前、ダイエットなどの理由を除いて主食は用意しなければ「気持ち悪い」と感じていた。
それを今回のGWは意図的に壊してみた。お米は一度、今日の昼にサバの炊き込みご飯をたいただけで、あとは昨夜食べたくなったからパスタを茹でたが、他は食べなかった。(続)

日記 

佐久間先生に民法総則を学び、松岡先生に物権を学び、潮見先生に債権総論を学び、敬三先生に債権各論を学ぶことができた我々の世代は相当恵まれていたのだろうな、と過去に思いを馳せてしまった。
もう一度学部生に戻りたくなる。戻りたいのはあの非日常が日常の生活なのか、それとも学びたいことを好きなだけ飢えることなく学ぶことができる環境のことなのかはわからないけれど。

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