日記:gwの食事と固定概念について 

決められたことを決められた通りにやらないと気持ち悪い人間で、大学院時代は朝5時に起きて毎日同じ朝食をとり、毎日同じ昼食と夕食の準備をして、自転車で研究室に行き、朝6時から夜10時まで勉強をして、帰宅したら20分の踏み台昇降のちに風呂に入って翌日のお米を炊飯器にセットして寝る、を2年繰り返した(フィールドワークは別)。土日もお盆も正月もGWもである。当然周りからは機械だと言われた。なおメンタルは機械ではないので、ただ自分が定めた「こうするとやりたいことがうまく回る」の通りに動かないとムズムズするだけであって、何を言われても何も思わないどころか言われたことを解釈しすぎてとにかく繊細だった(今も繊細ではあるがあの頃のような壊れやすさはないと自負している)。

さて、そんな人間であるため、結婚してからは長年食事とはかくあるべしという思い込みが1つあった。それは米でも麺でもパスタでも主食がなくてはいけないというもので、外食や出前、ダイエットなどの理由を除いて主食は用意しなければ「気持ち悪い」と感じていた。
それを今回のGWは意図的に壊してみた。お米は一度、今日の昼にサバの炊き込みご飯をたいただけで、あとは昨夜食べたくなったからパスタを茹でたが、他は食べなかった。(続)

フォロー

日記:gwの食事と固定概念について 

(承前)
結果として主食は「なくても全く問題なかった」のである。
確かにあった方が美味しい時もあった(ごぼうのピリ辛甘酢あんかけ炒めを作った時はお米があった方がいいと思った)。しかし、食事において一汁三菜が理想というわけでもないと感じたあの日のように、主食もまた「おかずの一つ」でしかなかったとようやく自分の中で昇華されたのであった。

GW中は蒸し野菜や蒸し鶏、スープ、ホイル焼きなどをよく食べた。普段より手がかからなかったのに、品数は多かった。せいろやレンジ、トースター、オーブンをうまく使いまわせたからだろう。
ドレッシングが苦手だったのもやめた。蒸し野菜にごまだれをかけるのは美味しかったし、準備も楽だった。蒸した芋は甘くて美味しかった。
ただそれだけのことが、もうX歳になる自分にとってはとても新鮮な体験だった。

歳をとると変わることは難しいという。実際に自分でも柔軟性に欠けてきていると感じるときがあるし、気を抜くと自分の経験を軸に新しい価値観や出会ったことのない知らない考え方、生き方を「否定(悪意を持たない無関心も含む)」することがある。
だけどまだ自分は変わることができるし新しく学ぶことができる。そしてそれをこれからもできる限り謙虚に繰り返していきたい。

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。