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ビッグサイズ秋がうねうねと空から襲ってくる

白江幸司 さんがブースト

“ちいさい秋”が見つからないうちに、いきなり窓から巨大な秋が自ら突入してきたみたいな気温降下ですが、みなさん大丈夫ですか?
ja.m.wikipedia.org/wiki/ちいさい秋み

昨日から「風景論以降」展枯らし刺されたのかTLで議論が散見されるが、その中で風景論現在形として言及されてる高島鈴「景観を穿つ」を読んだ(ウェブで読める)。

これ読むと、アンジェラ・デーヴィスの最近訳された監獄論が気になる。現代エンタメには巌窟王と怪盗ルパン、古の冒険小説やルパン三世などを経由してずっと「監獄のファンタスム」はあるよなーと思うなど。
なろうにもあるし、『姫様、拷問の時間です!』もそう。日本のエンタメではシチュエーションプレイに近くになる。洋ドラだと、理不尽な収監がもっとあるためか、解像度がいきなり上がるが…。

また、あと、風景論のアジェンダはアンリ・ルフェーヴルから迂回できそうにも思った。英語圏のルフェーヴルってこういう論壇なんじゃね感。

白江幸司 さんがブースト

ほんとそう。

個人営業みたいな店をやっていた者としては同じような思いがある。そして、それは、わたしには絶望に近い感覚になっている。

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10月1日に廃業予定の業者が本当に多い。端から見たら突然にと思うやろうけど、事業者の廃業(特に飲食店)は突然ではなく、表向きは涼しい顔をしてても水面下で廃業準備しとるんです。インボイスは、今まで踏ん張ってた膝を簡単にへし折る衝撃があると思う。
twitter.com/nabeyokoDGBZ/statu

アナタが毎日のように利用するコンビニ、スーパーマーケット、ファミレスは10月1日以降も普段通りの営業を続ける事でしょう。ただ、町の景色に張り付いてたアナタが今まで素通りしてた小さな定食屋は、たった一枚の張り紙で別れを告げます。
twitter.com/nabeyokoDGBZ/statu

その小さな定食屋が潰れてもアナタの生活は困らないでしょう。灯りの消えた店に貼られた張り紙の情報を入手し、3歩歩けば「次は何が出来るのかな〜?」とつぶやいて、コンビニエンスストアに吸い込まれて行くのです。それが今の日本。
twitter.com/nabeyokoDGBZ/statu

白江幸司 さんがブースト

飛び降りようとして踏ん切りがつかずどうにもならなくなった猫の姿

白江幸司 さんがブースト

自分からコードの森に突っ込んでいきながら不満そうな猫。どかしました。

いまグレーバーを読むなら、『民主主義の非西洋起源について』からがおすすめ。これはいわば西洋中心主義を崩して民主主義論をするものなので、ポストコロニアルな見地の仕事にも読める。

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日本語ウィキペでは脱落しているが、サーリンズはグレーバーと2017年に共著『王たち』を出していて、それは一応以文社刊行予定案件のようだ。サーリンズとグレーバーは師弟ともに2020年頃に亡くなったんだな。あと、『アナーキスト人類学のための断章』(原著2004)はサーリンズが着任した出版社から刊行されているので、そういう意味でもグレーバーは世話になっていたっぽい

(『万物の黎明』刊行記念ということで、デヴィッド・グレーバーのWikipedia日本語項目を書誌情報だけくっそ細かく改定した)

神クズアイドルの作家、こういうスタンスなのか。彼は大童澄瞳ぐらいの「まあまあ」ムーブをしたら(厳密には大童もアメリカ秩序からだと政治忌避の欺瞞っぽい弁明に見えるはずだが日本だと政治的に見えるバランス)、「政治的な人なんですね、ガッカリです」リアクション受けまくってかわいそうな流れになっとるな
x.com/hiziki3/status/170472694

本当は猫なのに、誤って人間の生活をしているみなさん。お加減はいかがですか。

白江幸司 さんがブースト

不意にオノ・ナツメ『ACCA13区監察課』(全6巻)を読み始めたら、あまりのたくみさ、漫画のパワーに、一気に読み終えてしまった。シナリオよし、絵よし、セリフやドラマの構築力あり、と今や珍しいフルスペック漫画家だ・・・!と感動した。普段、貸本時代の再演であるかのような限界水準を掘っているだけに。

アドルノは、ベケット褒めて映画やラジオでハイモダニズムやるぞ~、が本意なのに、あらゆる芸術を殲滅するアウシュヴィッツ絶対化おじさんみたいなきわめて保守的なイメージが現在蔓延している。
だが、ジェイの示唆するアドルノからは、彼のミメーシスこだわりからでも映画分析へのコミットもありえたはずだし、彼の文化の真正性への敵意からは、シミュラクル万歳のコースもありえたと読める。

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ジェイのミメーシス論まとめ(ついでにアドルノ/ラクーラバルト論)である「ミメーシスとミメーシス論」(『文化の意味論』)では、90年代当時のアドルノ研究成果を生かしたアドルノ像が登場し、それとラクーラバルトの仕事が突き合わされる。
ここでのアドルノ言及はいろいろ示唆的で、「ドゥルーズの理論的ポテンシャルに比べるとドゥルーズ自身の芸術ジャッジが保守的に見える案件」はアドルノとそのポテンシャルでも同様だったと気付かされる。つまり、ドゥルーズを、プルーストでゴダールでストローブユイレでベーコンの人と見ると、なんか古い文化趣味に見えるんだけど、理論的にはむしろその後のフェイズで捉えうる感じが、アドルノ解釈でも起きてたんだなと。

ディシプリンやそれを伝授する集団が、「特定の言動への侮蔑」を結束の手段にして、しゃっくりのように繰り返すのは、どこにでもある。アメリカの学問にだってある。
そういう威嚇行為と学術秩序がほとんど不可分になっているし、日本はその末端。

「書籍だけで知っていると、穏健なのかなと思っていたが、アカウントの言動があまりに醜悪でびっくり」とか「アカウントの活動のせいで、評判がいいらしい書籍の読むが激減」などもよくある

いや、むしろ正当性を確保したまま人をなぶりたいから研究者をやる、って人は今や珍しくない。

大家や中堅の専門家でも排他的規範意識で侮蔑を撒き散らす人はどこにでもいる。表面の取り繕いに差があるぐらい。その程度の粉飾で人は「ふーむなるほど」などと腕組んで頷く反応になる光景はよくある。

これまで単に物理的に隔たってたから醜悪さが可視化されなかったのがSNSになって表面化したのであり、悪化したわけではないのだとも気づく。

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