悪役令嬢ものでは、風評がひどいキャラの中に現代人が転生するので、ふつうに過ごしてるだけで「(評判と違って)お優しい…!」と褒められるギャップをまず仕込む。
大筋では、「原作世界のメインヒロイン/日陰者になる噛ませ犬ポジの悪役令嬢」を、噛ませ犬/主人公に反転させるのが悪役令嬢ものの基本形なんだけど、その「原作世界のメインヒロイン」の人物造形が18-19世紀の「徳のあるヒロイン」像のパロディになっているのがキモになる。
大河内昌「家庭小説の政治学」(20015)https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2159&file_id=18&file_no=1 で語られるように、リチャードソン『パメラ』の主人公パメラ像に付与される美徳というのは、近代社会の経済や家父長制にとっての都合のよさの気配が濃いわけだけど、これがパロディにされる段階が悪役令嬢ものだ、ということになる。
その結果、悪役令嬢側が「主体的」であるというふうに配置上の力学が生じやすい。貴族として領地経営をしているし、貴族間の生存競争で戦ってることから、「原作世界のメインヒロイン」との差異化属性が、そのまま生存術みたいに位置付けられる作中再解釈が加わっていく。
なろうコミカライズで、下手な漫画家が打ち切り退場になるのもよくあるが(12-13話ぐらいでするっと終わる)、漫画が達者な人でもわりと長期停滞したり降板するので、現在のコミカライズ制作環境は、報われないものが多いんだろうなと思われる。
『生き残り錬金術師は街で静かに暮らしたい』や『転生先が少女漫画の白豚令嬢だった』では漫画家が降板するトラブルが起き、『魔導具師ダリヤはうつむかない』でも同じようなことが起きていたので、看板級の期待がかけられ、腕のある人を起用した場合にも、何かが起きているんだろう。アニメ化にこぎつけたことに、コミカライズの出来の良さがあったと思われる『悲劇の元凶となる最強外道ラスボス女王は民の為に尽くします。』すら、漫画家が降板し、新たな漫画家で新章スタートすると告知された。
『悪役令嬢の中の人』は、転生者と悪役令嬢の魂が同居(これなら前例はある)し、のみならず、人格交代がアンコントローラブルに進行してしまうため、まるでシャーマニックな憑依のようなモメントを持つのが特色。
また、悪役令嬢/正ヒロインの関係は、普通は前者から後者に通常はかませ犬ポジションが移動する作劇を伴い、このペアが鏡合わせになるのものだが、今作では、悪役令嬢に善良な転生者(の魂)が入ることで、鏡合わせが悪役令嬢内部だけで確立されている。
この結果、転生者の善良性と、悪役令嬢の策謀が同居するハイブリッド展開を起こすのだが(漫画版ではそれを顔の演出で激しく動かしている)、転生者の行動が倫理的基準になる離れ技が生まれている。ミニマルなプロテスタンティズム?
とはいえ転生者が引っ込んだ後は、元人格が統合的に動き出すため、善行のすべては擬態となり、あらゆる称賛をあたかも自分に対するものではないかのような「承認と欲望の逸らし方」が見られる。かように歪みが激しいのだが(なにせ終盤では正ヒロインポジの歪み顔キャラは、舌を切り取られ、炭鉱便所女にされるのだから、主人公はちっとも善良ではない)、歪み方が面白い作品。
ダリの雨降りタクシー、彼の絵よりもおもしろいな〜(ART SINCEの1942bで出てくるので見てた)。https://www.artpedia.asia/rainy-taxi/
運転手はサメに食われとるし、乗客は車内土砂降りのために腐りかけてる(作り物のカタツムリがたくさん貼られている)。今のアート秩序だったら、ダリは映画あるいは短編映像作品を撮ってただろうと確信させるものがある。
あまり書き物ができてない。