やはり、マイクを使わない劇場でのライブの発声、演技、そして身体のパフォーマンスと映像で必要とされる演技はまた別、ということなのでしょう。
さて三つ目は1980年の『獅子の時代』、山田太一(『二十四の瞳』などで知られるゲイの映画監督木下恵介の弟子)脚本です。
ここでは実在しない薩摩と会津の下級武士を、それぞれ加藤剛と菅原文太が演じます。
福島原発事故後につくられた『八重の桜』の主要登場人物が、会津藩の家老など最上層部であることと対照的です。
そして、伊藤博文(根津甚八)の秘書として民間の憲法草案を収集していた加藤剛は、伊藤から「大日本国憲法草案」を聞かされて、「天皇?」と絶句し、激怒します。
父や兄を戊辰戦争と西南戦争で失った加藤によれば「それでは何のための維新だったのか?」、「支配者が上にいることを認める社会では幕藩体制と同じではないか」と啖呵を切り、伊藤と決別しますが、結局「主権在民」的な憲法私案を持ったまま、暗殺されることになります。
菅原文太の方は秩父困民党の蜂起に参加した後、全国にいる「同志」を結集すると言って信州に落ち延びて行くところでドラマは終わります。
演出的には初回の筑波山の麓での民衆の「歌垣」の祭りを「ミュージカル」的に表現したのですが、これはやはり「大河ドラマ」を見慣れている「多数派」の受けが悪かったらしく、2回目以降は、できるだけ通常の「大河」に近い演出に戻りました。
二つ目は当時の市川染五郎主演の『黄金の日々』(1978)です。
これも、「海の世界」を背景にして、権力者秀吉に服従を拒み、ルソンに去る主人公のお話です。
ただ、市川染五郎(現在は松本幸四郎を経て、松本白鷗)は・・映画に出てもそうなのですが・・あまりにも「大根」すぎます。
これは歌舞伎の世界で大物(特に「荒事」)だからといって、むやみに・・話題作りのために・・現代劇に出演させることを反省するいい機会だったと思うのですが、そうはなりませんでした。むしろ逆ですね。
この大河の配役で興味深いのは、宇野重吉(「民芸」)・栗原小巻(「俳優座」)と唐十郎・李麗仙、それに根津甚八と、「新劇」と「アングラ」の双方からキャストに登用されていることです。舞台裏ではどういう会話がなされていたのでしょう?
意外だったのは、唐十郎が映像的には市川染五郎並みに「大根」だったこと。また栗原小巻の演技は「下手」ではないが、「テレビ」向きではない、ということです。
また、蜷川演出の芝居やある時期からの日本映画などで私が感じた、強烈な「ミソジニー」は、「批評」の世界でも・・形を変えながら・・柄谷、浅田、東、千葉へと世代を超えて「受け継がれている」。
現在でも、文芸誌の「ミソジニー」はちょっとなんというか、「シーラカンス」が徒歩圏内の水族館で展示されている、という感じでしょうか。
実際のところは、東浩紀などがの「ポリコレ」棒などといったネット・スラング的な卑しい表現は、現実の社会の中で権力が縮小していく「男」たちの最後の砦なのかもしれません。
とは言え、先日書いたように、ライト・ノベル、SF、歌謡曲、アニメ、漫画などの「サブ・カルチャー」にはまだまだ底が見えない強烈な「ミソジニー」と「左翼」フォビアが渦巻いていることは間違いありません。
さて、それはそれとしてNHKなどのテレビ・ドラマに演劇が進出し、ある程度「反体制」的なドラマを創れた時代として、1980年が下限になる、興味深い例を三つご紹介します。
一つ目は福田善之が脚本を担当した1976年の「風と雲と虹と」。
これは平将門を「体制」への反逆者として位置づけると同時に、海の民、漂白の民(吉行和子、草刈正雄)を登場させるなど、あえて言えば石母田正と網野善彦の世界が入り混じった作品です。
「人々が憎しみに頑なにしがみつく理由のひとつは、憎しみがなくなれば、痛みと向き合わざるを得なくなると感じるからだろう」‐ ジェイムズ・ボールドウィン(米国の作家、人権活動家)
原文
“I imagine one of the reasons people cling to their hates so stubbornly is because they sense, once hate is gone, they will be forced to deal with pain.”
感想:自分達の差別を認める"ささやかな痛み"を共有できない人々は、憎しみで痛みを忘れようとする。
差別される側の大きな痛みと危険に比べれば、ほんとうに"ささやかな"痛みなのだけれども。
人権を知ることは、"ささやかな痛み"を共有すること。 [参照]
「アングラ・小劇場のミソジニー」
そして、もはや「土俗性」に立脚できなくなったアングラ・小劇場の空間も急速に解体し、あとには「引き裂かれる身体」やら「蕩尽」・「非―知」やら、あるいは「器官なき身体」や「人間の終焉」といった消費社会に包摂された「ポスト・モダニズム」的な用語のざわめきだけが残った、という感じでしょうか。
振り返ってみれば、鈴木忠や市川浩(ベルクソンの「身体論」を強調していた)の季刊「思潮」から「批評空間」への移行は、こうした「土俗性」をベースにした演劇の凋落とポスト・モダニズム(資本主義の速度)への移行、と平行線を描いていたのかもしれません。
もう一つ、アングラ・小劇場に関して、私が感じた重要な印象は強烈な「ミソジニー(女性嫌悪・憎悪)」です。
これはアングラでは伝説的とされる清水邦夫作・蜷川幸雄演出の1969年初演の「真情あふるる軽薄さ」の再演を1990年代に観た衝撃に集約されます。
ここでは「正しいこと」を語るる「学校教師」の女性=「戦後民主主義教育」が、終始一貫侮蔑の対象となっています。これは、思想以前に世代的なものもあるのでしょう、私としては「生理的に」受けつけないものでした。
他にアングラ・小劇場を代表する劇団としては、佐藤信の「黒テント」、寺山修司の「天井桟敷」、鈴木忠の「早稲田小劇場」などがある。
アングラ・小劇場の特徴としては「身体」のパフォーマンスと「近代」批判としての「土俗性」の再評価が際立っている。「民俗学」のエピソード、それに「巫女性」(白石佳代子など)もそれに関連して重視されます。
こうした文脈に、アルトーの「引き裂かれる身体」やバタイユの「禁止と侵犯」、「蕩尽」、「非ー知」、あるいはフーコーの「華々しき身体刑」などの語彙が・・いささか乱暴なかたちではあれ・・投げ込まれていた。逆に「他者」との関係を切り捨てていくブランショはまず引用されない。
ただし、私が会った演劇関係者でフーコーの『監獄の誕生』を日本語訳ででも最後まで通読している人はいませんでしたが・・・ですから「華々しき身体刑」から話が進まない。
もちろん、研究者ではないのですから、それでいいと言えばいいのですが・・・
とは言え、70年代前半までは、このようなアングラ・小劇場的なものが一定程度「リアリティ」をもって受容される基盤があった。
しかし、先日の投稿、「フォークロア」から「サブ・カルチャーへ」で書いたように70年代前半には、日本の「フォークロア」的な世界はほぼ消失。
戦後演劇史
1960年代半ば大ヒットしたが、「在日」の問題をとりあげたために、急遽打ち切られた「若者たち」などは、ほとんど「俳優座」のドラマといってもいいくらい。若き日の原田芳雄も出ていてなかなかに興味深い。
しかし、60年安保後、安保の顛末を「ボス交」の取引き、と見る視点から福田善之が1963年に『真田風雲録』を発表したあたりから、「新劇」から「アングラ・小劇場」へのヘゲモニーの移行がはじまる。
先に挙げた原田、西村、中村、市原は「俳優座」から1971年に退団。この原田を「師」と仰いだのが松田優作であり、原田、林隆三(俳優座)、藤竜也などが登場する「友よ、静かに眠れ」を撮ったのが崔洋一です。そして崔洋一の師、大島渚が「御法度」で優作の息子、龍平を抜擢しているわけですから、いろいろと繋がっていますね―
また1963年には唐十郎が唐組・状況劇場を設立して記念公演にサルトルの「恭しき娼婦」を上演します。そして、1969年には「新宿西口」付近にてゲリラ的に公演を敢行、機動隊に追いかけ回されながらも、とりあえず公演を終了。このパフォーマンスで「紅テント」は一躍「カウンター・カルチャー」の旗手となります。俳優としては根津甚八、小林薫、佐野史郎、それに唐十郎の妻(現在は離婚)李鳳仙などがいます。
奥先生、ちょっとびっくりだな…オタク文化のバックラッシュここまできたか
https://twitter.com/hiroya_oku/status/1690162561969500160?t=b88TlupHlcDJnzAwxNla1A&s=19
この写真、東京新聞さんはよく撮ったと思うし、こうしたパワハラ行動を取る人物が大臣をしていることに恐怖を覚えます。威嚇してるんですよね。
https://twitter.com/tokyoshashinbu/status/1688736468796391425
何回見ても怖いな……