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 「アングラ・小劇場のミソジニー」

 そして、もはや「土俗性」に立脚できなくなったアングラ・小劇場の空間も急速に解体し、あとには「引き裂かれる身体」やら「蕩尽」・「非―知」やら、あるいは「器官なき身体」や「人間の終焉」といった消費社会に包摂された「ポスト・モダニズム」的な用語のざわめきだけが残った、という感じでしょうか。

 振り返ってみれば、鈴木忠や市川浩(ベルクソンの「身体論」を強調していた)の季刊「思潮」から「批評空間」への移行は、こうした「土俗性」をベースにした演劇の凋落とポスト・モダニズム(資本主義の速度)への移行、と平行線を描いていたのかもしれません。

 もう一つ、アングラ・小劇場に関して、私が感じた重要な印象は強烈な「ミソジニー(女性嫌悪・憎悪)」です。

 これはアングラでは伝説的とされる清水邦夫作・蜷川幸雄演出の1969年初演の「真情あふるる軽薄さ」の再演を1990年代に観た衝撃に集約されます。

 ここでは「正しいこと」を語るる「学校教師」の女性=「戦後民主主義教育」が、終始一貫侮蔑の対象となっています。これは、思想以前に世代的なものもあるのでしょう、私としては「生理的に」受けつけないものでした。
 

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