欲望機械は新たな流れを生産するためにひとつの流れを分断する。新たな流れはさらに新しい流れを生産するために次の機械に分断される。それぞれの機械が部分対象──乳房=機械、口=機械、胃=機械、腸=機械、肛門=機械──である。そして次の機械が求める流れをそれぞれの機械が生産していくことで、これらの機械の接続が加速されていく。ドゥルーズとガタリにとって重要なのは、流れ、接続し、生産するこの機械の論理なのである。というのも機械の論理は、伝統的な精神分析では想像の領域のものとされてきた幻想と欲望──無意識、夢などに現れるもの──に取って代わって、それらを物質的な領域に落とし込むからだ。それは現実の領域で起こるものになったのである。こうして、クラインやフロイトには部分対象の活動を象徴的なものとして語る向きがあるのに対して、ドゥルーズとガタリはそれに異議を差し込むために、また、機械生産のリアリティを強調するために、「部分対象」を「欲望機械」と言い換えるのである。
〈内的体験〉は脱自=恍惚であり、コミュニケーションであるといわれる。体験の中で「主体と客体とは効力を停止する」。しかし、そこに生ずるのはすべてを呑みこみ流し去る混沌ではない。「このとき主体は非知、客体は未知となる」。いいかえれば体験は、一切の差異を流し去る幻惑の中に主体を呑み込むのではなく、主体の個別性の解消によってもはや主-客の関係の中で客体を知によって支配しようとしない〈非-知〉と、主体によって所有されるべき客体ではない〈未知のもの〉(もはや知の対象ではありえないもの)との直の接触を生むのである。もはや知の関係、主-客の関係に限定されず感性的体験と区別されないこの接触、それが〈コミュニケーション〉であり、〈体験〉を支える〈共同体〉のもはや限定し得ない実質であるが、その〈共同体〉とは、未完了の存在が裸でその有限性をさらし合う純粋な差異の接触としての〈共同体〉にほかならない。
ニーチェ以前にも、道徳を歴史的に変化するものと見做し、その変化を進化論的に説明する試みがあり、ニーチェもその内容を知っていたが、パウル・レー、スペンサー、レッキーなどによるこの試みは、道徳の変化が利他主義へと向かう一方的な「進歩」であるという前提を共有していた。ニーチェにはこの点が不満だった。道徳の変化は進化であっても必ずしも進歩ではなく、道徳の一方的な変化という前提に囚われているかぎり、道徳の多様性という事実が説明できなくなる。この不満は、ダーウィンがラマルクに代表される先行の進化論および地質学のうちに見出した困難に対応する。ダーウィンもニーチェも同種類の困難を解消するために、同じ図式を考案する。生物の進化も道徳の変化も、ともに直線ではなく、枝分かれを繰り返す扇状の系図によって描かれることになり、そのために二人のこころみは系譜学(系統学)と呼ばれる。系図を作ること、系譜学とは、分岐点を記述する作業。
快原理そのものは当初、生命の自己保存を導く原理として持ち出されていた。しかし実際にはそれだけでなく、拘束の機能を通してこそ「無機的世界」への回帰=死に最終的に奉仕するように働く。一方で、快原理は、心的活動の拘束を通して、快/不快、拘束/拡散、生/死の循環的エコノミーとして生命を維持するように努める。しかし他方、そのエコノミーがいわば螺旋状に進行するにしたがって、最終的に「有機体はみずからに固有の仕方で死のうとする」のである。この水準では快原理は死の欲動に奉仕する。「すべての生命体の目標は死である」という「死の欲動」は、生そのものに内在する死の反復(反復強迫)、およびそうしたエコノミーの終わりへの帰還として理解できる。
快原理のもとでは、願望充実を幻影のうちに実現することが夢の機能である。しかしながら、大きな災害や過酷な戦争体験の神経症患者の夢では、患者がくり返しトラウマ的な場面に連れ戻される経験をする点にフロイトは注目した。通常、夢での不快な場では、幻想のなかで不安を形成することがいわば免疫をもたらし、直接の心的衝撃を和らげる効果をもつ。フロイトの言葉でいえば、快原理に代わって現実原理が欲動を「拘束する」ことで結果的に快原理の働きを成し遂げることが可能になる。にもかかわらず、外傷的神経症患者の夢では、心的エネルギーのこの拘束が快原理に奉仕するようにうまく働かない事態が生じてしまう。その理由は、心的拘束が現実原理で対処できる限界を超え、いまや反復強迫にしたがって生じているからである。この反復強迫をきっかけにフロイトが仮説として提出しているのが「死の欲動」である。
アドルノは自我に関する理論において、二つの考えの間を揺れ動いている。一つは自我というものは廃絶されてしまっており、支配者に管理されるアトムとなった人間たちという考え。もう一つは、弱体化してるとはいえ自我は存続しつづけているのだが、しかし自分の身を守り無力な状態を抜け出そうとして、ほかならぬ当の権力と一体化してしまい、自律について考えることすら放棄することになるというもの。後者の考えに立脚する場合、この弱体化した自我について、「大衆心理学と自我分析」というフロイトの研究にかなり依拠しながら「集団的ナルシズム」にかかわっているという診断、またアンナ・フロイトが行った自我の一定の防衛形成の解明をわがものとしつつ「攻撃者と一体化」しているという診断をくだすのだ。それはまさにフロムが『権威と家族に関する研究』から『自由からの逃走』において、〈サド-マゾヒズム的性格〉あるいは〈権威主義的性格〉と呼んで分析したものであった。
社会研究所内のニーチェ批判(物質的欲求の充足を目指す社会的革命への実践的志向や勇気の欠如といったマルクス主義寄りの批判が大勢を占めた)の論陣に対し、ニーチェの文化批判を擁護するアドルノには市民→民衆→大衆というコースを辿るアメリカ社会の現実が念頭にあり、民主主義や社会主義といったものが政治的利害を代弁する宣伝手段といった意味での「イデオロギー」になってしまった今、意識に燃えたプロレタリアートによる、社会体制の全面的改革など一種の偶像崇拝であると批判者のマルクス主義的認識を斥ける。アドルノから見たニーチェの「超人」概念は、全体主義、独裁主義的なカリスマ的権威を指すのではなく、絶えず自己の限界を超えていく自己超越、自己克服能力の持ち主のことを指す反省的な主体である。
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こういう問題を「上/当局からの押し付け」と枠付けして「それに負けない俺たち」の反発を動員する動きは、日本ではいわゆる「表現の自由戦士」と言われる一群にも見られます。そして、キャンパス内の学生の言動にも、それと同様のものは、すでにはっきりとあらわれています。
したがって、「大学((中枢?良心的教員?本部?当局?)が推進する性差別是正を大学自治が阻んできた」という図式は、現在の大学それ自体をめぐる政治風土を考えても望ましいものではありませんし、現場レベルでのキャンパスの女子学生やフェミニズム団体にとっても支えにはなりません。
現実には、学生自治の枠組みの中で粘り強く他の学生たちへの説得を続けてきたフェミニストの学生たち、それを受けて自治会として性差別是正やD&I推進に取り組もうとしてきた学生たちもいるわけです。
むしろそちらに目を向けませんか、とわたしは言いたい。
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現代思想2024年2月号の小田切拓氏の論考で引用されていたイスラエルの運動家Jeff Halperの記事。"イスラエルが、兵器や抑圧方法といった自らの行う占領を、それを喜んで迎え入れる顧客であるアメリカやヨーロッパの軍、安全保障機関、警察に対して輸出するのと同じように、国際人道法を効果的に操る専門技術やその効果的なPR技術を輸出しているのだ"
バトラーが「自分自身を説明すること」の注で紹介していたThomas Keenanの「Fables of responsibility」面白そう。邦訳出してー。
精神科病院の看護助手や派遣バイトで税金や中退した大学の奨学金を払いながら本を読んだり絵を描いたり音楽を聴いたりしています。