中国の地名や中国人の名前をカタカナ表記にする件は、考えてみると、英語圏の人と日本語圏の人が会話するとき便利だから、という理由があるのではないかという気がしてきた。

中国語的にはまちがってる発音でも、2人の外国人のあいだで通じれば意義はあるので。

「精強」って自衛隊関係くらいでしか聞かないなと思って調べてみたら、戦中(1942年-1944年)にピークがあった lab.ndl.go.jp/ngramviewer/?key

「注釈」なのか「註釈」なのかの使い分けについては、1) もともとは「注」「注釈」しかなかった 2) 途中で「註」が派生してできた 3) 日本は「同音の漢字による書きかえ」で「注」「注釈」に統一することにした と変遷があるので、「本来は註釈で、注釈は新しく簡略化したもの(だから正統でない)」というのは、あまり正しくない。むしろ「註釈」のほうが創られた伝統ともいえる。
kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/

明治時代に読点や句点の連続(。。。や、、、)をリーダー(…)のような用途でつかった作家がいるという、真偽不明の情報を目にして、いちおう探してみたが、みつからない。

踊り字の連続(ヽヽヽ)を見てそう思ったとか?
管見では踊り字の用例はやはり、直前の字の繰り返しであって、リーダーのような言いさしや余韻の表現ではない。

「へヽヽ」はいまなら「へへへ」と書き換えられるが、「へ……」とは書き換えられない。

「擡頭」は「台頭」になったが、「頭を擡げる」は「頭を台げる」にならなかった。というより、「台頭」を「頭をもたげる」と読み下すことがなくなり、「台頭」が読み下せない漢語になったのか(「頭をもたげる」という意味だと解釈はできるにしても)。

点を6個つづけて省略などをあらわす日本語のあの記号(リーダー)は、三点リーダーという名前で呼ばれていることが多いけれども、『国語教育研究大辞典』は、「六点リーダー」と呼んでいる。

文字というか活字としては2個連続して使うから、1個1個を「三点」と呼ぶのだろうけれども、概念としてあるいは記号としては、たしかに「六点」と呼ぶほうが理にかなっている。横長もしくは縦長にすることになっているからといって、記号として分割する理由はない(半角にした記号が記号として0.5個分になるのではないのと同じように)。

人の家を訪問して「刺を通ず」って暗殺者かと思ったら、(使用人を通じて主人に)名刺を渡して面会を願うという意味だった
kotobank.jp/word/刺を通ず-515173

語源は漢文だと思うが、韓国語でも一般的なのかな:通刺 (통자)
en.wiktionary.org/wiki/通刺#Kore

の古典で「生ひ先」(子どもの将来、成長後)がよく出てくる。
いま使われている「老い先」は、これの類推であとで作られた単語らしい。
(いまは)発音が同じなので、両方つかうと混乱する(ので前者はもうつかわないのだろう)。
kotobank.jp/word/老い先-448456

の専門用語は漢語が多く、音声では分かりにくい。

脳の部位の名前とかでも、つかっている漢字自体はむずかしくなく、漢字を一字ずつひろえばなんとなくイメージもわくので素人にやさしい、という話がありますが、未知語として音声で聞くときは「ノーカスイタイってどんな字で書くの?」みたいになってしまいあまり助けになっていない。

「しただれもの」みたいなのだったとしたら、音声でも多少イメージがわくかも。

『「闘争・逃走」反応』(fight-or-flight response) がうまいこと言ってるのも文字としてであって、音声としてはこの用語を導入するときは「これはタタカウの意味のトーソーとニゲルの意味のトーソーで……」と補足しないとまず意味が分からないと思う。

「食」は天文学で、「金星の食」などいちおう単独の名詞(接尾辞ではないもの)として使われる

その「食」は、たべることという意味の「食」(「京の食」など)と高低アクセントがちがう?

時代劇の「○○することと相(あい)成りました」みたいな「相(あい)」って意味(語彙的意味)がないらしいですね。たんに語調を整えるためにあるとか。「あい」を抜いても意味が通るのが特徴。

「相分かった」
「申譯が相立たない」
「何の役に相立とうか」

浮世絵では雨が糸(線条)としてかかれることが多く、言語表現でも少なくとも江戸時代生まれの作家までは「雨の糸」が珍しくない。

森鴎外翻訳、シュニッツレルの「みれん」

> ほとんど小止《おや》みなしに降る、細い、鼠色《ねずみいろ》の雨の糸

otakinen-museum.note.jp/n/nb7b

この灰色の柵のようなものは何と呼びますか?「車止め」?「駒止」?

なぜアスカを飛鳥と書くのか

明日と書いてアスと読む、だったら中国語と日本語で意味が同じだから合流した、というふうに説明できるけど、アスカのような場合はもっとややこしい。

アスカという地名があり、その場所を詩歌にうたうとき、トブトリのアスカという決まり文句を使うことが多くなり、トブトリを飛鳥と書くようになり、2つの部分が合体して(←ここが納得しにくい)飛鳥と書いてアスカとも読む、ということになったらしい。

ja.wiktionary.org/wiki/飛鳥

「普段の努力」と「不断の努力」は語源的には同一らしいが、意味・表記・発音がそろって分化している。

昔の国語審議会では、「かな書きにすることによって,漢字表記のゆれを解消したほうがよい」とまで言われている(つまり「ふだんの努力」)。
bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sis

予言なのか預言なのかについて

昔(戦前)の人はだいたい、「予言(豫言)」と「預言」は区別ないですよと言っている

もしかして漢字を簡略化(豫→予 )したとき、どうみても違う感じになったから使い分けしたくなったとか?

形容詞の「簡単の」の用例

「簡単の家庭事務、お祝い事の手伝い、御不幸事の手伝い、」 『家政婦の栞』 dl.ndl.go.jp/pid/1108469/1/11
「頗る簡単の形態に約めらるることあり」『通俗言語学』 dl.ndl.go.jp/pid/861756/1/105

真逆(まぎゃく)

BCCWJで検索すると1980年代がヒットしてるなと思って、よく見るとすべて「真逆様」の解析誤り。正しく「まぎゃく」なのは

> 夜中に勤務している数少ない刑事と巡査のほとんどを沼間とは 真逆 の小坪海浜公園に集め
(なかにし礼『夜盗』、2003年)

これ以後は多数用例があって、2004年の流行語という話に合致する。
salon.mainichi-kotoba.jp/archi

数える意味の「一服(いっぷく)」「二服(にふく)」は発音するとき、数える意味の「一本(いっぽん)」「二本(にほん)」と同じように頭高か?

「一服の清涼剤」は数える意識がなくなったせいで、頭高でなくなっている?(「一本の鉛筆」を頭高でない発音にすると違和感があると思う) [参照]

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