「アーティストの感性」なんてものは信じちゃいないんで、「アーティストとしての目線でしかできないサウンドデザインを!」と求められても私は要領悪くリサーチしまくって理論構築して、自分じゃなくてもできるサウンドデザインをするよ。
今日は認知科学の領域から美学を取り込んで、意識や知覚とはどういうものかを考えようとする論文 Ansorge らの『Art and Perception: Using Empirical Aesthetics in Research on Consciousness (2022)』を読み進めた。
ここでの「芸術」という言葉のスコープについて、「それが芸術かそうでないかについて一般的な社会的合意が概ね取れている、文化的に派生した人工物」という説明をしていた。
それと並行して G.Minissale の『現代アートの心理学 (2013)』も読んでいるんだけど、こっちでは「芸術に関する心理学の研究の多くは、現代芸術の大部分、特にコンセプチュアルアートやアンチフォーマリズム、レディメイドを無視している」という批判が書かれている。
でも研究対象としてある程度扱いやすいものとするなら前者のように社会的合意みたいな既存の枠に頼ってスコープを制限したほうが適しているだろうし、自ら「芸術」の枠に挑戦している前衛芸術が研究でなかなか扱えないのも仕方ないよな…2022年の論文だってそうなんだもの…
#研究日誌
展示が終わったので、一ヶ月以上止めてしまっていた研究に戻る。
芸術とは概念だということを確認したところで止まっていたけど、これは自分の研究の出発点や領域を確認するための、前提の前提みたいな段階。半年でこの進捗は
ということでちょっとずらして、「参加」や「関与」という経験や感覚について調べるところから再開。それも芸術分野からは一回離れて、医学・リハビリテーション科学の領域を切り込んでみた。
Häggström らによる『The complexity of participation in daily life (2008)』によると、後天性脳損傷患者のリハビリテーションという文脈では、日常生活における参加とは次の五つのカテゴリーの特徴を持った一連の経験であることが示唆されている: 「タスクを遂行すること」、「意思決定し、影響力を行使すること」、「有意義な活動に従事すること」、「他者のために何かをすること」、そして「所属すること」。
もちろんこれをそのまま芸術鑑賞の文脈に転用することはできないけど、少なからず共通点はありそう…という方向性で進めていってみようと思う。
https://medicaljournalssweden.se/jrm/article/view/18113
#読書メモ
藝大で助川舞さんの作品を鑑賞してきました。タイトル控えるのを忘れてしまったのですが、とてもよかったです。
指定された空間に片手を置いて、じっとしていると飛行機に乗っているようなノイズが聴こえてくる。輸送されているような音、不快な音ではなく、いつまでも放心して耳を傾けていられそうな音でした。(展示室内に他の人の作品もあるので、完全に没頭できるわけではありませんが)
自分の手を見つめて、とキャプションにはありますが、見ることよりも、自分の体の一部を作品に預けている、という感覚を自覚させられることが重要な気がします。
思えば飛行機に乗ったり、あたらしい場所に行ったり、何かを得るためにひとはある程度自分を投げ出します。作品に対して、よし何か見せてもらおう:聴かせてもらおうじゃないか、という態度を控えさせ、作品に差し出している自分自身があり、作品がそれを別の時空から優しく戻してくれる鑑賞体験でした。
展示物制作のラストスパート、サウンド部分の仕上げ段階なのだけど、全然身が入らない…音ってなんだっけ…
アァー (Web会議当日呼び出し+30分延長+通話者の後ろが騒がしい+通話者の声が小さいのフルコンボでMPが枯渇する音)
Pure Data パッチはテキストエディタで開けば、オブジェクトが置かれた順に処理される問題とか、オブジェクト同士の間隔が揃わなく気に食わん問題とかがまるごと解決できることに気づいた。俄然元気出てきた。
QT: https://fedibird.com/@maisukegawa/112938095659572760 [参照]
社会人大学院生: サウンドプログラマ/フロントエンドエンジニア/大学非常勤講師として働く傍ら、インタラクティブアートやサウンドアートについて研究中。作品制作も細々と。