ゾンビの定番は、理性を喪失して人間を食べ物と認識して襲うというものだと思うけど、それなら共食いが起こらないのはなぜなんだろうという疑問がふと。
匂いが明らかに違うだろうから、そこで判断されているのかな。それか、ゾンビ同士は仲間だと認識できるだけのホルモン機能があったりするのかな。
(単純にゲームやストーリーに共食いシステムは邪魔だからっていうのは、なんというか、野暮じゃないですか )
#fedibird
ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲を分析中。
この第1楽章、ソロが二人もいるのになんだか物足りないなぁと思っていたのだけど、その理由がわかった。
対位法的な絡み方をしていない。対位法的というのはざっくり言うと、互いに独立したメロディが重なることで豊かな和音やリズムを作っている状態のことなのだけど、これがない。
つまり、この二人のソロ楽器は「互いに独立していない」、ほとんど常に一人のソロであるかのように書かれている。
一説では、仲違いをしてしまった二人 (ブラームスと友人ヨアヒム、またはヨアヒムとその妻という説がある) の和解を象徴しようという意図があったと言われているのだけど…
互いに境界が無くなるほどに一つになっている表し方をされていると考えると、奇妙な危うさが見えてきてしまうな。
#クラシック
昨日はコンサート『湯浅譲二 作曲家のポートレート』に行ってました。
クセナキスの『ジョンシェ』が本っ当に良かった…
オーケストラが全体で一つの楽器に聴こえるというのは、オーケストラ楽曲の理想の一つだけど、今回初めてそれを体験できたかも。
多くの音楽に多かれ少なかれある緊張と解決、いわゆる音楽の恣意的な句読点というものが無いような曲なのだけど、それはつまり「A地点からB地点までのつなぎの音」のようなものがなく、音の動きのすべてが純粋な現象であるように振る舞うので、解釈や読み替えを必要とせずに聴くことができる。大気の流れのような物理現象を可聴化するとしたら、きっとこうなるんだと思う。
あとは個人的な趣味として、大太鼓の皮が破れんばかりの全力打撃音を聴けたという意味でも、大変満足でした
いわゆる社会的な芸術作品にある、作者が見ているもの・問題視しているものに、鑑賞者も向かせようとする作品が苦手だ。そこには、啓蒙する作者とそれに追随する鑑賞者、という無意識の主従関係が内包されているから。
それを嫌だと思うのは、実際に私自身が、作品がスポットをあてている物事について知らない側なので、それを咎められているように感じるからかもしれない。
それでも知らない側に何かを知ってほしいなら、言葉を尽くすか、せっかく芸術でやっているのなら作品をある視点に誘導しようとする記号で固めないで、当事者の生き様を生々しくも美しく追体験させてほしいと思う。
情報 (言葉や芸術作品等を含めた大きい意味での) が人によって発信されているのかそうでないのかはおそらく明確に区別すべきで、なぜなら人がその情報を発信しているということには多かれ少なかれ何らかの意図があるからであり、人が発しているにも関わらずその人自身の存在を無視するようなことがあれば、それはコミュニケーションを誤る原因になる。
人が情報を発するということ自体が、情報の発信者であるその人と、情報の受信者である他者との間のコミュニケーションになる。
となれば、人でないもの (ここでは AI と言って良いと思う) が発信した情報は、そのきっかけが人であるとしてもその意図からはある程度切り離せるはずで、そういう状態にあってはじめて受信者はその情報とのある種純粋なインタラクティブが可能になり、発信者の意図に左右されない受信者自身の感じ方やバイアスに注目できるようになるのでは。
今日は久々に仕事の調子が非常に良く、あー良いもの作っちゃったな…!というとても清らかな気持ちで今夜は眠れる #fedibird
サウンドプログラマ/フロントエンドエンジニア/大学非常勤講師として働く傍ら、芸術やコンピュータサイエンスなど雑多に勉強中。
サウンドアート、インタラクティブアートの創作も細々と。