コイカラ13(あむあず)
不可抗力で偶然で、決して意図して青年を狙ったわけではないというのは主張したいけれど、結果だけを見れば、梓が投げたボトルが彼の額に直撃したという事実に変わりはない。そんな理由もあって、やはり彼をここに寝かせたまま見捨てるわけにはいかない。
「なるほど。それでポアロなんですね」
そんな梓の主張にわかりましたと納得すると、沖矢は彼女の足元で相変わらず眠ったままの青年をのぞき込むようにしゃがみ込む。トントンと肩を叩き、反応がないことを確認して、さらに頬を軽く叩く。それでも反応がない。これで起きてくれれば肩を支えながら歩くなどの方法を取ることができたのだが、それは無理そうだと小さく息を吐いた。
梓が沖矢と青年のふたりを連れてポアロまで帰ると、マスターはたいそう目を丸くして驚いた。
「そう、そんなことが。とにかく、榎本さんに怪我がなくてよかった」
補充のための買い出しを遂行できなかったことについて、店に帰って一番に謝罪する。これでは午後からの営業はサンドイッチはなしの、デザートと飲み物だけになってしまう。正直なところ、サンドイッチの売上のメインは、ランチタイムよりもこれから始まるカフェタイ厶。
コイカラ12(あむあず)
なんとなくではあるが事情はわかったという沖矢が、降谷が投げ飛ばして気を失っている男から梓のカバンを取り上げ、男を警察に連れていくよう指示をする。
遠巻きに見ていた若い衆を名指ししてお願いをすると、ひったくり犯はあっという間に引きずるように連れて行かれた。男が引きずられて行くと、同時に梓たちを遠巻きに見ていたギャラリーも解散する。その場に残ったのは、梓と沖矢、それからまだ地面で伸びている青年の三人のみ。
「さて、彼はどうしましょうね」
ずっと石畳の上に寝かせておくわけにはいかない。ましてやここは道路の真ん中。
「沖矢さんにお願いがあります」
どうしようかと言いながら立ち去る気配はない沖矢に、梓は青年を梓が働いている喫茶ポアロまで運んでくれないかとお願いをする。
梓のお願いが予想外で沖矢が驚いた顔を見せた。
「ポアロへ?」
「ええ。ひったくりを退治してくれた恩人さんですし、それにその……」
言いづらそうに口ごもる。もごもごと口の中だけで続きを言うかどうかを迷っている梓に、沖矢は先を促すでもなくただ黙ったままで、かといって立ち去るでもなくふたりの様子を見守る彼に白状した。
「倒れてしまったのは、私のせいなんです!」
コイカラ11(あむあず)
彼女の足元で、道の真ん中で仰向けに倒れている青年を見つけたのは、梓に声をかけてからのこと。褐色の肌に、顔周りに特徴的なくせ毛がある金髪。目を閉じていてもわかる整った顔立ちは、若干幼く見える。
彼を見て、沖矢がぴくりと反応する。ほんのわずか、注意していても気づくか否かの変化には、すぐ間近にいた梓を含め、誰も気づいていない。
「ええと、彼は?」
こほんと小さく咳払いをしてから、気を取り直して地面に仰向けに寝ている青年に視線を落として、それからもう一度、梓を見る。
「それがですね、ええと」
「お知り合いですか?」
困った顔を見せる梓に尋ねる。沖矢の質問にいいえと首を横に振る。青年は梓がひったくりにあった現場にたまたま出くわして助けてくれた人で、知り合いではない。というか、金髪に褐色の肌の知り合いなんて梓の回りには居ないと言うと、梓の話を聞いた沖矢も、あごに手を当ててふむと考える素振りを見せる。
「しいて言うなら、ひったくりから助けてくれたヒーローさん?」
「なぜ疑問形なんですか」
戸惑いを見せる梓に、沖矢がくすりと笑う。
コイカラ10(あむあず)
倒れた青年の横にごろりと転がっているけれど、そんなことにかまっていられない。ボトルのあたりどころが悪かったのか、それとも倒れたときにも頭を打ったのか、どちらが原因かはわからないが、完全に意識を失っている。
荷物を取り返してくれた恩人をこの場に放置しておくわけにはいかず、でもすぐに目を覚ます気配はない。彼をどこかへ運ぶにも、男の人ひとりを運ぶだけの力は梓にはない。
途方に暮れていると、座り込んだ梓の隣に別の誰かが立つ気配がした。
「道の真ん中に座り込んで、どうかしましたか?」
頭の上から声をかけられる。
声に顔を上げると、サクラの花に影を落としたような色味の柔らかなピンク色の髪が視界に入った。
「沖矢さん」
梓に声をかけたのは、彼女が務めている喫茶ポアロのすぐ近所に店を構えている宿屋の店主。いまここに来たという好青年然としたにこやかな表情を浮かべている彼は、梓と、梓の足元で気を失っている青年の見事な一本背負いを見ておらず、ただ道の真ん中にしゃがみ込んでいる梓を見て、知り合いのよしみで声をかけた。
コイカラ09(あむあず)
もっとも、こんなことで感じたくはなかったけれど。
泥棒、と叫びながら走る梓を、町の人々が驚いた顔をして振り返る。道を開けてくれるから走りやすくはあったけれど、それは前を走る泥棒もあまり変わらないので距離は縮まらない。
待て、と走りながら声を上げて、盗られずに唯一手に持っていたボトルを振りかぶる。そのまま勢いよく前の男に向かって、そのボトルを投げた。
ほぼ同時に、青年が走る泥棒の前に立ちふさがる。
「何だおまえ、どけ!」
邪魔だと怒鳴って凄む男に青年は怯むことなく、男の胸ぐらを掴み上げる。足を払って、男の身体がピンクと青のコントラストが美しい宙を舞った。投げられた泥棒が地面に強く叩きつけられる。
パンッと手を払って振り返る青年の淡い金色の髪が、振り返るために動いてさらりと流れる。その金の色が、景色を彩る色と相まって幻想的に映える。
「大丈夫──」
──ゴンッ。
梓に向かって手を伸ばした青年の額に、鈍い音を立ててボトルがぶつかった。見事なクリーンヒットに、青年の身体が後ろへ傾く。そのまま、重力に従って石畳の硬い地面の上に倒れ込んだ。
「きゃあっ!」
青年の額にぶつかったのは、泥棒の足を止めようと梓が放った彼女のボトル。
コイカラ08(あむあず)
道のそこかしこに満開のサクラを見上げる人々が足を止めては、ほうと感嘆のため息が聞こえてくるようだ。
──ドンッ!
梓に、後ろから強く衝撃が走る。
「えっ」
ぶつかられた衝撃に転びそうになって、たたらを踏む。なんとか転ばずに踏みとどまることに成功した梓だが、手に持っていたカバンがないことに気づいた。
どこへ行ったのかと見ると、梓から逃げるように走り去ってゆく男の手に見覚えのあるカバンが握られている。間違いない、買い出しのために梓が預かってきたカバンだ。
「ひったくり!」
考えるよりも早く、梓から走って逃げる男に向かって叫んだ。
転んだわけではないし、ケガはしていない。足も捻っていない。傷みがないことを確認して、梓は石畳の足場の悪い地面を踏み込むと、強く蹴った。
「待ちなさい! 泥棒!」
長いスカートを翻しながら走る。立ち仕事で歩き回るため、歩きやすい、走りやすい靴を履いていて良かった。この町で女性は低くヒールがついている靴を履くのが主流で、梓も仕事でなければ普段はそちらを愛用している。なにせ手に入りやすさが格段に違う。ポアロの仕事をしているときに履いている靴は、すごくすごく探した。その甲斐あって動きやすさはお墨付き。
コイカラ07(あむあず)
梓が対応しても問題はないのだが、先日、マスターに話したいことがあると言っていたことを思い出す。梓を通じての伝言ではなく直接話がしたいと言っていたので、こうしてタイミングが合うのならそれを逃す選択肢はない。
代わりに買い出しに行くと梓が主張すると、それじゃあお願いしようかなとマスターから買い出しのためのカバンと買い物リスト、それから財布をあずかった。
店の外に出ると、狙ったようにびゅうと風が吹いた。
どこからか飛んできた桜の花びらが舞い上がって、梓のまわりを踊るようにくるくると回る。
狭い道を抜けて視界が開けると、長く先へと続く桜並木が広がっていた。
「これは、お花見がしたくなるのもわかるわ」
梓が買い出しに出る直前にテイクアウトのランチボックスを注文した女性グループ客が話していた内容を思い出す。彼女たちは桜が満開になっている公園で花見をしながらランチを食べようと話をしていた。
道の端に足を止めて、カバンからボトルを取り出す。中には、店で入れたコーヒーが入っていて、蓋を開けるとその香ばしい香りが梓の鼻孔をくすぐる。
こくりとコーヒーを飲んで、ほんの少しお花見気分を味わう。
コイカラ06(あむあず)
サンドイッチのセットを渡して、これから向かう場所について楽しそうに話をする彼女たちを見送った。
「梓ちゃん」
ドアが閉まったのを見届けてから、マスターが梓に声をかける。どうしたのかと振り返ると、彼はポアロの制服でもあるエプロンを外して、薄手の上着を手にしている。
いま見送ったばかりの彼女たちのように、テイクアウト用のサンドイッチのセットにいつもよりも注文が入って、サンドイッチを作るための食材が予定以上に減ってしまっていた。ランチタイムのピークも過ぎて、これからはカフェタイムに移ろうとしている。がっつり食事として食べるランチに比べればサンドイッチのセットを注文される割合は減るものの、小腹がすいた軽食としてつまむ客もいる。
足りなくなった食材を買い足すために市場まで出かけるなら、ランチタイムのピークが終わり、本格的にカフェタイムとして客が入り始める前のいまのうちだろう。
いってらっしゃい、と見送ろうとして、ふと気づく。
「待ってください、マスター。これから鶴山のおばあちゃまがいらっしゃると、さっき連絡があったんです」
コイカラ05(あむあず)
その景色は狭い路地裏の奥にある喫茶ポアロにも届いていて、ドアを開けばはらはらと舞う花びらが店内に舞い込んでくる。訪れる客の頭や肩、荷物にもときおり付いていて、外を望むことができないポアロにも春の訪れを知らせてくれる。
「サンドイッチとコーヒーのセットを四人分、持ち帰りでお願いできますか?」
ランチタイムの忙しさからそろそろ開放されそうという時間に、ドアが開く。
表に出している『持ち帰りできます』の看板を見て気になったという若い女性グループの客は、陽気な気候の日が続く最近の天気を全身で表現するように華やかな服に身を包んでいる。みんな揃ってこれからお出かけなのだろう。
たまたま通りがかって店の看板に気づいたという彼女たちの話を聞くと、朝から気合を入れて看板を描いたかいがあるというもの。彼女たちが目にしたという看板をデザインしたのは梓。
「はい、かしこまりました!」
嬉しくて、ポアロの店員としてだけではない笑顔がこぼれた。
会計をしている間に持ち帰り用のサンドイッチセットの準備ができる。持ち帰り用の紙製のランチボックスはポアロのロゴがデザインされている。中には注文を受けたサンドイッチがみっちりと詰められている。
コイカラ04(あむあず)
表の看板には喫茶店を表すコーヒーカップが描かれていて、玄関にはポアロの文字が書かれた帆が掛けられている。店の輪郭があやふやになるほどたっぷりの花で飾り付けた花壇には毎朝たっぷりと水をやるのが、梓が店員として店に出勤してきて一番にやることだ。真っ昼間の今は、路地の隙間から差し込む太陽の明かりをたっぷりと浴びて、鮮やかで色とりどりの花を元気いっぱい咲かせている。
この国──白の国では、今の季節はあらゆるところで桜が満開に咲き誇っている。淡いピンク色の小さな花びらはときおり強く吹く風に舞い上がって、時には幻想的な光景が見られることもある。
特に広場や、郊外に走る川の河川敷などは様々な種類の桜の木が集中的に植えられていて、まるでピンク色の絨毯が敷き詰められているかのような光景が広がっている。ピンク色を中心にそれぞれ個性的で特徴的な色をしている桜の花は、舞い落ちたピンク色の花びらがグラデーションのように混じり合って地面に美しい模様を描いている。
見上げた先で風に吹かれた花びらが宙をを舞い、踏みしめる石畳には舞い落ちた花びらが絨毯を作り、あたり一面の世界の景色を構築する全てがピンクに染められた。
コイカラ03(あむあず)
カフェタイムならケーキセットを勧めるところだけれど、まだランチタイムも真っ只中の時間なので、ランチにもなるサンドイッチのセットを勧める。ポアロのサンドイッチは、卵をたっぷりと使ったボリューム満点のタマゴサンドだ。
「それなら、店員さんのおすすめをいただこうかしら」
「はい、少々お待ち下さい」
マスターに注文を伝えて、そのタイミングでもう一組、食事を終えたグループの会計に立つ。カランカランと軽快に響く音を聞きながら空席になったテーブルを片付けていると、今度は追加注文に呼ばれた。
たった二十席ほどの店とはいえふたりで回すには限界なのかもしれないと思うほどの忙しさの中で、さらにもう一組、喫茶店のドアを開いた。
広場に通じている大通りから伸びた横道のさらに奥、路地裏の細い道を進んだ先。道はたっぷりと蛇行して、いくつもの階段を登ったり降りたりして、さらに塀を突き破るように開けられた、人ひとりがようやく通ることができるほどの広さの穴をくぐった向こう側に、喫茶ポアロの入り口はひっそりとある。
特に目立つような立地条件ではなく、むしろ不揃いの石でできた足場が悪い階段の上にあるこの場所は、表通りに比べると格段に不便で目立たない場所にある。
コイカラ02(あむあず)
「いらっしゃいませ。カウンター席でしたら、すぐにご案内できますよ」
空きがあるのは、たったいま会計をして見送った男性が座っていた席。食器を片付けて諸々のセットさえすればすぐにでも案内できると伝えると、彼女はよかった、と胸をなでおろした。
婦人と梓がやり取りしている間に、店内で忙しく動き回っているもうひとり、マスターの手によって席の準備が整えられる。
「梓ちゃん、準備大丈夫だよ」
「マスター、ありがとうございます。──どうぞ、おまたせいたしました」
準備完了のOKが出たのを確認して、改めて婦人に向き直る。カウンター席に案内すると、おすすめは何かしらと問われた。
「おすすめは、オリジナルブレンドのコーヒーと、サンドイッチのセットです」
コーヒーはマスターが懇意にいている仕入先にお願いしているもので、いくつもの種類の豆を毎日ブレンドしている。いつも安定した同じ味を提供できるよう、その日の気温や室温、仕入れた豆の状態を見ながら、細かくブレンドする。マスターが腕によりをかけた一杯は、ここ喫茶ポアロが自信をもってお届けするメニューの中でも一番多く注文されていて、名実ともに看板メニューとなっている。
コイカラ01(あむあず)
『看板娘に恋した王様の溺愛は、空振りばかりみたいです。』
「梓ちゃん、ごちそうさん。お会計たのむよ」
「はーい、ただいま!」
目が回るような忙しさのランチタイムはありがたくも毎日のことで、カウンター席と四人がけのテーブル席、あわせて二十席ほどの店内は常に満席に近い状態を維持している。
「いつもありがとうございます。午後のお仕事もがんばってくださいね」
カウンター席にひとりで座ってランチを食べていた男性は、ぴしっと折り目正しく華やかなその身なりから想像するに、これから何か大きな仕事が待っているのだろう。言って笑顔で見送る梓に応える彼の笑顔はどこか緊張を感じさせる硬さがあった。
カラン、カラン。開くドアに合わせて、ドアベルの軽い金属同士がぶつかる独特の音が店内に響く。男性を見送ると、入れ違うようにまた新たにもうひとり、今度は年配の上品な女性が店に入ってきた。
「こんにちは。いま席の空きはあるかしら?」
おっとりと穏やかな口調で尋ねられる。女性は店の中をちらりと見て、想像以上に賑わっていることに驚き、人気の店なら期待しても良いかしらとふふと笑う。期待されたら、喫茶店の店員としてはその期待に応えないわけにはいかない。
成人。工藤邸の便器になりたい。
昴さん・風見さん・梓ちゃんに偏愛の雑食おばけ。
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