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今日は月に一度のおつかいの日で、外出するついでに、以前友だちに連れてきてもらったたいへんおいしい南インド料理店のランチに入った。
なんとここは全メニューでベジタリアン対応してくれる。ので、念願のミールズを注文した。コリアンダーの効いたラッサムがおいしい。あと私はバトゥーラがとても好き…

おつかいを半分終えたところで寄ったのだが、店に入ってまもなく雷が鳴りだした。
雨が降るならやり過ごしたいな、ごはんを食べているうちに通り過ぎないかな〜と思ったのだが、なかなか雨が来ない。結局食べ終わって、店を出てからどんどん空が暗くなり、雷も近づいてきた。めちゃくちゃ焦って大急ぎで残り半分の用を足し、降りだす前に間一髪のところで地下鉄に滑り込むことができた。よかった…。

また締切を持ち越してしまった。作文、とくにお話、それも結末の部分を書くことはほんとうに集中力が要求され、やっぱり日常生活を通常レベルで送りながらタスク的にこなすことは(少なくとも私には)できないのだ、とあらためて思う。最優先すべき中心に作文を据え、作文以外の生活は最低限にして余りのエネルギーで回す態勢にし、あとはどうなってもいいからとにかく書くのだ、今夜は寝ないぞ、という覚悟で向き合わないとやれない。突破できない。

それでも書ききることができなかった。いちばん進退極まっていたぬかるみのような部分は抜けたと信じたいが、一晩では越えられなかった。月初はライスワークも重くなる時期できついが、今週は作文以外のことはすべてあきらめて何とか終わらせたいと思う。

あ、嫉妬や独占欲は抱いたことがありますよ。というか、仲の良い友人に対してわりとカジュアルに抱いてました。嫉妬・独占欲って「その感情が恋愛感情である証」みたいに表現されがちなので、友だち相手にこんな感情を持つ私はおかしいんじゃないか、みたいによく落ち込んでいましたね。あと20年前のAro/Aceの当事者の語りは「嫉妬や独占欲が理解できないし、向けられても困る」という感じのやつが多くて、私やっぱりAro/Aceでもないんだな…と思ったりもした。いやまあ「向けられても困る」のは私もそりゃそうなんですが。
最近はそういう執着もなくなってきたけど、単純に年齢を重ねたせいじゃないかと思う。
あと短期間だったけど、男性といわゆる「交際状態」だったときの自分のことはとても嫌いだし今でも許してない、ただそれは「強烈な衝動や抑制できなさ」のせいではないんだよな。ポジティブな感情の高揚はほとんどなかったと記憶しています。なので、私のなかでは男性と交際していたときのことは「恋愛あるいはそれに類する(と思われる)体験」にはカウントしていない。

「恋愛(以下略)体験」の箱に入ってるのは、かつての友人と行った忘れがたいライヴの思い出とかです。

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"これが恋愛の状態なのかな? と感じる経験は今までにも何度かあったけれど、そういう最中の自分じゃない感じ、というか、脳や体がずっと何かに支配されているような感覚や、いつもとちがう自分の衝動的な振る舞いや状態に戸惑いを感じるようになった。"
meandyou.net/202307-hoshinoari

「自分が自分でなくなるような気がする」「コントロールが効かなくなる」ので「恋愛状態は避けたい」という話は、周囲のあまり恋愛に積極的でない人たち数名から聞いたことがある。
私自身は、そういう強烈な衝動や抑制できなさを、生活している中で接点のある人に抱いた経験はなく、心当たりがあるとすれば「推し」のミュージシャンやフィクションのキャラクターへの強い感情かなあと思う。やっぱりフィクトセクシュアルの傾向もあるのかな。

そして私は「推し」への抑えがたい激しい何かを抱えている状態の自分がそんなには嫌ではなく、いや渦中にいると「自分めっちゃキモい…」とはなるんだけど、それはそれとして「推し」がいる状態を恋しく思ってしまう。
もう3年ぐらい凪が続いているんだけど、正直寂しいです。

思えばツイッターを始めたとき(2008年なので15年前)その動機のすべてではないにしても、明確に「自分の書いたものの宣伝に使いたい」という思いがあった。まだ文学フリマにコピー本しか持っていっていなかったころ。

このさき、私が宣伝や告知をする機会は減るだろうと思っている。なくなるかもしれない。
たぶんそんなこともあって、SNSとの向き合いかたがなかなか見えてこない。まあ、こうしてそのとき思ったことをだらだらつぶやくんだろう。今までもそうだったし。

ツイッターにいると「こんなヘイトスピーチがあって最悪だった」という話ばかりしてしまう。

Threadsもアカウントは作ってあるんだけど、まだ動かせていない。Instagramをツイッターより信頼しているかと言われたら微妙なんだけど…

今日が最終日の展示を何としても見に行くつもりでいたが、周期的な体調の悪さが想像よりも強めに出ていて、40℃近い酷暑のなか、遠くまで行って駅から徒歩10分…ともろもろの条件に挫けてしまいそうになっている。
現在の私の興味というよりは過去の私への義理で見に行こうと思っていた展示でもあり、なんていうか、行けなかったらごめんね過去の私、という感じ。

しかし自分以外の人には「そこに存在するだけでえらいよ」と心の底から言えるのに、自分のこととなると「子どももいない、結婚もしてない、パートナーもいない、推しもいない、生きがいと言えるほどの仕事もしてない、本も読めないしおいしいものに執着もない、それで作文もできなくて生きててどうすんの?」みたいな気持ちになってしまうのを止められず、どうしようもないですね。

衣食住には今のところ困ってなくて、生きがいと言えるほどではないけど仕事もしてて、なんなら家族を扶養に入れてて、猫様にキャットタワーだって建ててやって、友だちもいて、いやぜんぜん虚しくなるような状況じゃないでしょ、なのは、自分でもわかってはいる。
でもそういう問題じゃないんだよなあ。

せめて猫様がキャットタワーを使ってくれるようにならないかなあ。家族が頑張って慣らそうとしているが。

締切があるのにまったく向かいあう気になれない。あともう最後の場面を書けばこの話は終わり、つまりこの仕事も終わらせられるのに、「私にはもう何も書けない」という気持ちが重くのしかかってきて起き上がれない。いつだって「書けねえ〜」とぼやきながら、それでも騙し騙しここまでやってきたけど、こんなに「書けない」という気持ちが強くなったことは過去にもあんまりないと思う。忘れているだけ?

私はもう書けない。書けないんだよ。
書かなくなったら切れる縁があるだろうな、とそんなことばっかり頭をよぎる。でもどうしようもないもんね。実際すでに、書けなくなってきたことで疎遠になりかけている人が何人もいる。誰にもどうにもできない。

女と女の話を書いています、みたいな売り文句を使うときもあるが、思えばもともと意識して「女と女」を書こうとしていたわけではなかった。書きたいように書くと男性キャラクターがぜんぜん出てこなくて、男が書けないことがコンプレックスでさえあった。

そして私が書いてきた「女」のなかには、女ではなかったキャラクターもいるだろうなと思う。ノンバイナリーやジェンダーフルイドなどの語を知らなかった頃から「この人は『中性』なんだよな」と思いながら書くことはあったので。

星組『1789』千秋楽LVを観てきて、大興奮で感想ツイートを連投している途中でAPI制限がかかってしまった。うう…

ふだん宝塚歌劇を観ていて、舞台上の全員が女性である、ということはほとんど意識しないのだけれど、今回はしみじみそのことをすごいなあと思ってしまった。
いわゆる「外部」というか宝塚以外のミュージカルを数えるほどしか観たことがないので、井の中の蛙な発言かもしれないけれど、この大作をオールフィメールのカンパニーで上演して、これだけのクオリティと迫力なのはやっぱりすごいんじゃないかと思う。そう思わされる歌とダンスだった。礼真琴さん、暁千星さんはじめ一部のスターが圧倒的なだけでなく、全体としての底力を感じた。

作品のスケール感や雰囲気は違うが、月組の『DEATH TAKES A HOLIDAY』LV鑑賞後も似たようなことを感じた。月城かなとさんの演技が良すぎたし、月城さんや風間さんなど目立つキャストに限らず、全体にとても力のあるカンパニーだと思った。

宝塚歌劇団、高品質なオールフィメールの舞台を定期的に上演してくれる団体になってくれないかなあ。団員にはそれが実現できると思うので、尊重してほしい。まじでハラスメントを放置してる場合じゃないんだよ。

私は意識して書かないと「異性愛」が書けないので、私の書いたものにおいては、異性愛はそれと読み取れるようかなりはっきり作中で示唆されているはず。
逆に言えば「明確に異性愛(者)と読み取れる」以外の事柄や人物はすべて「異性愛(者)ではない」と読んでもらいたいくらい。たぶん私が何も考えずに書くと登場人物は全員A-specかクエスチョニングになります。

それでも「Aro/Ace作品は少ない」って言われちゃうんだよなあ。いやまあもちろん圧倒的に少ないんだけど、そもそも「Aro/Ace作品として読む能力」が読む側にもないんじゃないか、それも作者の力量ではいかんともしがたいレベルで、というモヤモヤが私にはずっとあるんだよな〜。可視化されてないってこういうことなんだよ。私の力量が拙いのは認めます。

家族が新型コロナを発症した。幸い私を含めて他の同居家族の体調は変わらず、本人も回復し、医師から指示された自宅療養期間はそろそろ明ける、というタイミングで、深夜に起こされた。

症状の聞き取りをし、消防庁の救急相談センターと近所の大きな病院の夜間救急に電話をかけて相談し、ひとまず薬を飲んで様子をみる、で落ち着いた、のだが、完全に目が冴えてしまった。

本人も言っていたけれど、症状のつらさ以上に不安だったんだろうと思う。熱が下がり、急性期を過ぎたことで不安が出てきてしまったのだろう。
ほんとうなら隣に布団を敷いて寝たほうがいい状況だろうが、私は心配症状でまだ感染への警戒を緩められず、手を消毒して自室に戻った。高齢とはいえ大人でも心細いのに、患者が子どもだったらどれほどつらいことかと思ったし、そりゃ家庭内感染も広まると痛感した。隔離をしていたら背中もさすってやれないのだ。

私はいわゆる「濃厚接触者」の状態で友人に会うなどしてしまい、いや5類移行したのでもう「濃厚接触者」という概念はないのだが、そういう問題ではないしとにかく5類移行のことはめちゃめちゃに恨んでいる。

それにしても、看護とか介護とかは大変な仕事だ。たったひと晩のことでこれだけ消耗するのに…と考えると気が遠くなる。

"高島:大人になると、黙ったままでも人間関係を続けられてしまう部分がありますよね。でも翻せば、それは「あえて黙らない」という選択を、どれだけできるかということでもあると思っていて。"
meandyou.net/202304-kanekotaka

「黙って一緒にいられる関係」に憧れていたけど、「一緒にいるかぎり話していられる関係」だって尊いよな、と今になって思う。
私は自分にとって大切な人とはわりとずっと喋っていたい・なんでも喋ってしまいたいほうだけど、それでも最近は話さないままでいることが増えた。

昨日から有休消化という名の長期休暇に入った。初日はすっかりなじみの映画館になったシネ・リーブル池袋へ行き、ナショナル・シアター・ライブ『るつぼ』を観る、という上々の滑りだし。

で、今日は昼ごろまで起きられなかったので、そのままパジャマで家から一歩も外に出ずに過ごした。
久しぶりにツイッターに張り付いて、炎上中の話題について一日中ツイートをする、というろくでもない行いをやめられず、自分でも「やっちまったな」と思った。本のオビや売り文句に関する話題だったので、私が実用版元の営業を続けられなくなるに至ったしんどさを刺激され、黙っていられなくなってしまった。のだけど、こういうのはあまり健全じゃないよな、といつも思う。

ツイッターはもう、ほとんどあの悪名高い匿名巨大掲示板と治安の悪さが変わらないのではないか。「加害された、怖かった」という悲鳴の体でゾッとするような差別発言が拡散されている。『るつぼ』は抑圧され、弱い立場の子どもたちが罰を逃れるために吐いた嘘が、権威主義の共同体を集団ヒステリーに追いやり、人々が無意味に殺されていく話だった。同じものがここにあるのでは、と感じながらTLを眺めていた。

軸足をなるべくこちらに移そうと思う。

そんなつもりはなかったんだけど、いつのまにか、作文をするとき「自分が生きているこの現実をできるだけ正確にうつしとること」にばかり気を取られていたな、と急に思った。もちろんそれは必要な姿勢のひとつではあるのだが、でも、フィクションなのだから、私はもっと自由にやってもいい、いや自由になるべきだ。何も書けない、という感覚がこの数年ずっとあるけれど、これだけぎゅうぎゅうに自分を縛っていては小説は無理だな、という理解が突然やって来た。まだ直感の段階で、あまりきちんとした言語化ができていないけれど、この直感はおそらく外してはいないだろう。

棚のものを右から左に動かしている途中でブラッドベリの『歌おう、感電するほどの喜びを!』を見つけた。家族が放置していたのだろうか。いや、私が買ったんだっけ?
ぱらぱら捲っているうちに「ヘンリー九世」という一篇を見つけ、これは…!と思って読んだ。タイトルどおりの話だった。最後に残された者、英国の亡霊たちとともにとどまることを選んだ者の話。

続けて「大力」を読み返し(怖すぎて忘れられずにいた話だが、やはり怖かった)「キリマンジャロ・マシーン」を読んだ(半分くらいしか理解できていない気がする)。いまは「火星の失われた都」を読み始めたところ。

表題作は成井豊作の戯曲『広くてすてきな宇宙じゃないか』の原案になった短篇で、以前にもつまみ食い的にいくつか読んでいるものの、通読はしていない本なのだが、いますごく響いてくるし、文章もするする入ってきて「読める」気がする。本と出会うタイミングは選べないなといつも思う。
前に読んだときは「ニコラス・ニックルビーの友はわが友」がとても好きだったんだよな。今回はどうだろうか。

ひとり暮らしをしていたころは、帰宅してシャワーも浴びず歯磨きもせず寝落ちてしまうことがしょっちゅうあった。のだが、実家に戻ってきてからのこの二年ほどは、入浴・Duolingo・ラジオ英会話・22時半の猫の餌やり・歯磨きというルーティンをほぼ毎日こなせるようになり、こなせるようになるとむしろやらないと落ち着かなくなった。
そんなわけで夕ごはんを食べたところで力尽きて倒れ寝するのはずいぶん久しぶりだ。19時半ごろから寝ていたせいか変な時間に目が覚めてしまった。この季節の4時はまだ暗い。風が強いな。

退職を伝えてから三週間、ようやく最終出社日が確定し、本格的な引き継ぎが始まり、送別イベント的なものもあわただしく行われ、気が緩んだのだと思う。どっと疲れた。

ツイッターはいよいよもうダメなのかなと思う。ツイログが連携できなくなり、新規ツイートを取得できなくなった、という報告にほんとうに終わりを感じた(貧乏性なので、書いた言葉は原則ログをとっておきたくなる)。私のホーム画面のアイコンはまだ柴犬ではなく青い鳥のままなのだけれど。

いま住んでいる家の中ではあるが引越しが迫っている。家族と部屋を交換するのだ。
少しずつ準備を進めなければならないとわかってはいるものの、手をつける気になれない。何から手をつけたらいいのかもわからない。

まずは不用品を処分するところからだが、それをやる心理的なハードルが異常に高い。必要なものと不必要なものを分けることができない。できない、というか、したくない(「できない」と「したくない」はイコールだよねと常々思う)。

たとえば何年も着ていない服、読み返していない本、むしろ開いたことがない本、買って満足して未開封のCD、持て余しているライヴのグッズ、ツアーパンフ……
何もかも必要ない。本棚の最上段に恭しく飾ってある、某ミュージシャンのサイン入りのポストカードですら、必要か? と訊ねられたら即答できない。もう要らないのだ。要らなくなってしまった。

たぶん、この部屋にあるもののほとんどはいまの私には「要らない」もので、空っぽにしても私はさほど困らないだろう。
それをみとめるのが怖い。過去に夢中で集めて「墓場まで持っていく」と思っていたものたちを、いまの私は捨ててしまえる、その事実に向き合うことが怖い。

東日本大震災の数年後くらいから、3月11日のSNSの空気がどうにもしんどくなって、この日だけはツイートしない、極力タイムラインも見ない、ということをするようになった。ツイログを確認したら2017年からだった。
今年も今日はツイートしないが、しかしツイッターの雰囲気は六年ほどでずいぶん変わった気がする。単純に言及が減った。そういえば、数年前までは3月になったあたりから連日「忘れない」を連呼していた印象がある地上波TVも、今年はWBC一色だ。新型コロナという新たな災厄の影響もあるかもしれない。

なるほどこうして「忘れられる」のか、とふと思った。いや、まだ少しも忘れられてはいない。終わっていないのに忘れることはできない。それでも、時間が経った。

Yahoo!の「3.11と検索すると10円寄付される」キャンペーンにも、今年は素直に参加することができた。風化させないことは必要だ。

時間が経ったのだ、と繰り返し思う。

去年の3月11日は休暇をとって、国立新美術館へダミアン・ハーストの「桜」を観に行った。
今日は世田谷パブリックシアターで『ハムレット』を観ます。

音楽を聴けないのも、部屋の片付けができないのも、思い出にのまれて死にたくならないように、という防衛がはたらいているのかもしれない。

ものすごく久しぶりにBUCK-TICKの「Ash-ra」を聴き、そこからずるずるとSOFT BALLETのライヴ映像を観た。観はじめてすぐにいきいきと踊りまくっている森岡賢さんが目に飛び込んできて、ああそうだ、この人がもうこの世にいないことがつらくて、SOFT BALLETもminus(-)も遠ざけてしまったんだ、とすぐに思い出す。つらい。

2002年から2003年にかけての、SOFT BALLETの期間限定再結成のライヴはほんとうに楽しかった。あのときほどに熱狂できる瞬間がこの先訪れるとは到底思えない。こういうことを思うたび、自分はなんて寂しい人間なんだろう、と思うけれど、そのくらい過去に経験したライヴで浴びた輝きが強くて消すことができない。私もミュージシャンたちも歳をとってしまったし、一緒に光を分かち合った当時の友人も、もう私の隣にはいない。

ライヴに行かなくなったし、音楽を聴かなくなった。そのことが精神状態にもよくない影響を与えているんじゃないか、とも疑っているが、かといって好きだったバンドの楽曲を聴きだすと懐かしさにのまれ、生きていてもこの曲をライヴで聴いていたとき以上に良いことなんかないのに、という穏やかな絶望が押し寄せてくる。

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