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誤「満点の桜が咲く日」
正「満天の桜が咲く日」

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国立新美術館「蔡國強 宇宙遊」を観てきた。
展示室はひとつの広い空間を仕切りなしで使い、壁に沿ってビデオやドローイングが配置されているほか、電飾がついた巨大なモビールがたくさん設置されていて、遊園地のような空間だった。

横浜トリエンナーレや直島の常設展示などで以前から好感をもって作品を観てきたものの、こういうまとまった展示を観るのは初めてで、プロジェクトの映像をたくさん観られたのがよかった。万里の長城を導火線を伝う火によって延ばそうとする「延長」や「スカイラダー」など、どれもよかったけれど、とくにいわきの海岸で打ち上げられた「満点の桜が咲く日」は美しかった。
北京五輪の開会式の花火もすごい。ていうかアイ・ウェイウェイがスタジアムを設計し、蔡國強が花火を担当してたのか…。この五輪に関わったことで「体制側の人間だと思われてしまった」みたいなコメントもあった。

あとは砂曼荼羅の下絵を爆発させた「闇へ帰る」をはじめ、ガラスと鏡のあいだで爆発を起こして制作された作品群が美しかった。
最初に展示されている、作家の父によるマッチ箱のドローイングも印象的だった。

nact.jp/exhibition_special/202

あとからあとから思うことが出てくるのだが、「ロパーヒンの言うとおりにすれば最悪の事態は免れた」というのも違うと思うんだよね。桜の木をすべて伐り倒し、別荘を建てて観光地にすれば収益化できる、という現実的かつ資本主義的な解決策がほんとうに良策なのか?どちらにしても「桜の園」はなくなってしまうのに。
ロパーヒンのような在り方が「賢さ」とされるのがまさに今の日本だな、と強く感じて、抵抗感があった。

ただロパーヒンの言葉に耳を貸そうともせず、「アーニャが頼めばいけ好かないが金持ちの親戚が援助してくれるかもしれない」「アーニャが裕福な男と結婚できるかもしれない」とすべてをいちばん若いアーニャに押しつけ、現実逃避しているラネーフスカヤとガーエフの姿は、もちろんそれはそれでつらいものがある。

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一夜あけて、あの石棺とポリ袋は「封印された古いもの」の象徴として舞台の上空に吊られていたのであって、具体的な直喩ではなかったのかもと思いはじめている。
幕切れ、すっかりお金がないはずの貴族たちは、大仰に嘆き悲しみながらもうまいこと逃げ出す。若者たちは新しい世界へ出発する。そうして皆に見捨てられた(と言っていいだろう)気位の高い老いた使用人だけが取り残されて、ゆっくりと下りてきた石棺の中に閉じ込められる。そのことを誰も知らない。

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PARCO劇場で『桜の園』を観てきた。
舞台上に設置された巨大なコンクリートの固まりのようなものが、開演と同時に吊り上げられ、作業員らしき人が舞台を横切ってゆき、透明なビニール?ポリ袋?を被せられたキャストと家具が現れる。ああこれは石棺で、ここは帰宅困難地区なのか、ととっさに連想したが、その後はあまりそういう要素はなかったので、私が勝手に飛躍しすぎたかもしれない。
没落してゆく貴族が手放さざるを得なくなる桜の園の、失われる古きよきもの、子ども時代の遠い思い出というイメージを強調して感傷を呼び起こすこともできる戯曲だと思うが、この舞台は観ていて「百姓の子であったロパーヒンの立場に立てばこの話は、自らを支配し抑圧してきたものを経済力で圧倒し、土地を奪うという下剋上のサクセス・ストーリーでもあるよな」という思いすら過ぎった。
男たちが(兄のガーエフも含めて)ラネーフスカヤに群がっているのも、薄ら寒い気持ち悪さがあった。ラネーフスカヤ役の原田美枝子さんはたいそうチャーミングで、説得力がありました。八嶋さん・成河さんをはじめみんなすごく上手だった。村井國夫さんは存在感がすごかった。
stage.parco.jp/program/sakuran

これはほんとうにそう。私も子どもの頃から「釣られた」という感覚がいちいち思い出せないほどにあり、「恋愛から遠そう」なキャラクターに出会うたびに、惹かれてもいいけど釣られないぞ、油断するもんか…と身構えることがほとんどあたりまえになっていた。「裏切られるぞ、期待するな」とどれほど言い聞かせていようと「このキャラクターは自分と同じ星の住人かもしれない」という期待は生まれてしまい、その期待が裏切られるたびに傷ついた。そんなことで傷つく私が繊細すぎるのだ、と自分を責めていたので、私を傷つけつづけた「そんなこと」にクィア・ベイティングという名前があると知ったときには救われたものです。

ちなみに私に『ロータス』を書かせたもののひとつはこの度重なる傷つきだったと思う。私を裏切らないキャラクターや物語がどこにもないなら、自分で書くしかないと思ったのでした。
twitter.com/kodomn_/status/168

ツイッターを始めた2010年代前半は私にとっては人間関係にいろいろ変化があった時期で、そのころに繋がったもののその後メンテナンスできなくなった関係も結構あり、そういう意味ではツイッターの「フォロー」が一度リセットされることを清々しく感じている部分がある。実は私は「フォロー」を単なる「購読」とドライに割り切ることができないほうなので(「購読」であっても打ち切られたら寂しいし…)。もちろん、フォローにもリムーブにも強制力なんて働きようがないから、「F/R/Bご自由に」みたいなことは明記するまでもない大前提、と思ってアカウントを運営していたけれども。

ツイッターを始めたほんとに最初のころは浅倉大介氏のことを毎日ツイートしていたんだよな。
LUNA SEAという一点だけで相互フォローだった人もいたし、そういう、とくにバンド関連がきっかけでフォローしてくれた人への申し訳なさはこの3年ぐらいずっとあった。アホみたいにうわごとをツイートしまくっていたのが、ほんとうにまったく話題にできなくなってしまったので。

あとは2010年代前半に夢中になっていたことのほとんどが、10年経って「過去」になってしまった、というのも大きい。
そんななか、現在進行形でつながり続けてくれている人たちにはほんとうに感謝しています。

リンク先のツイートをされたかたが実際どうかは(わからないので)ともかく、いわゆるアロロマンティック・アロセクシュアル(非A-spec)だが「恋愛に興味がなく、やりたくない」という人は相当数いると思われる。かつ、A-spec側もこの枠に放り込まれがちなので、そこを明確に分けたいというのはすごくよくわかる。
アロロマンティック・アロセクシュアルの「恋愛したくない」とA-specの「恋愛したくない」は別物なんだよね。テーブルが違う。なんならA-specのテーブルの上にも「恋愛したい」はある。
twitter.com/sto2i2pdfdqlwsy/st

しかしこの記事を読むと『エクソシスト』撮影時の監督の振る舞いは擁護できないハラスメントだな…エクソシズムもので悪魔に憑かれた役を演じる子役の負担の重さは想像に難くなく、じゅうぶんに心身をケアしながら撮影してほしいものだ…とは常々感じていたので、必要以上に怖がらせて「本物」のリアクションを引き出す、みたいなことは今後はほんとうになくなってほしい。だいたい「本物のリアクション」=「リアリティ」という認識がもうどうかと思う。
cinemore.jp/jp/erudition/1110/

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W・フリードキン監督死去、87歳 映画「エクソシスト」―米:時事ドットコム jiji.com/jc/article?k=20230808 『ヴァチカンのエクソシスト』のおかげで最近思い出すことが多く、10年前に観たきりで細部など忘れているのでもう一度観ようかなあ、などと思っていたところだった。観よう…

一晩中エアコンをかけて寝ているが、明け方の5時くらいに一瞬「寒いな」と感じる瞬間が訪れるようになった。8月に入ると、秋に向かっていくのだなあ、と思う。いや、まだまだぜんぜん暑いのだが。今日は天気が良くなさそうなので、そこまでは気温が上がらないかもしれない。

一週間ほど呻いていた作文がなんとか着地し、とりあえずいったん手放した。一度も読み返さず、下書きの状態で送っているので後で推敲しなければならないし、もう少し書き足さないといけないのでは…という予感もしている。ともあれ、お話としての最後にはひとまずたどり着いたので、ホッとしている。ほんとうによかった。書いているうちにいずれ結末が見えてくるだろう、という楽観的な態度で書き始めたものだから、いつまでたってもゴールの位置がわからなくてかなり不安だった。不安なまま、ともかく走り終えた、という感じ。

学生のころ、友人にリクエストされたお話をうまく書き終えることができず、落ち込むことがよくあった。そのことを久しぶりに思い出す作文だった。

まだ作文してるけどほんとうにつらい。義務感だけでやる作文、割に合わないにも程がある。こんなしんどいこと、好きこのんでやる以外の動機でやるもんじゃないな(個人の感想です)

書いている人間が「つらい、苦しい、つまらない」と思いながら書いている文が、読んで面白いなんてことあるのかな?少なくともエンタメであるなら作り手も楽しまなければ、そういう「気分」はごまかしが効かず、受け取る側にはほんとうによく伝わるから、と思っているんだけど…でも、つまらない作文を「面白い」と思いこむこともまた無理だしなあ。こういうところが甘いのかなあ。

いつまでたっても社会の一構成員としての「ちゃんとした大人」になれる気がしないな〜などとのんきに思っているうちに、いつのまにかひとまわり下の世代が社会を回しているようだ。前職は高齢化が進んでいて、同世代もいなかったが若い人もいなかったので気づかなかった。
ちょうどその世代にあたる友人が「会社に40代がいないせいで、マネージャー業務をする人間がおらす、自分におりてくる」と嘆いていた。私の直属の上司もひとまわり年下だ。取引先で出会う人にも確かに同世代は少ない。ほんとうにいない。
このまま下の世代が回す社会に「乗せてもらって」いく世代になるのか、と思うとぼんやりしてしまう。当事者になって責任を負うのもまあめんどくさいし、とヘラヘラしているうちに、当事者になる機会を失くしてしまった。

40代の人間がこの世にいないわけではない。むしろその下の世代よりも人数はいるはずだ。なのに「事業会社に無期雇用されている人間どうしの場」にびっくりするほど40代がいない。
私に見えていないだけか?そうならいいと思う。思うが、「フリーターという自由な生き方」みたいなことをリクルートに吹きこまれ、非正規として安く便利に買い叩かれたあげくがこれか、という悲しみは年々強くなる。

縁があって手元に来た短歌の本を捲っていたら、捲っているだけで耐えられなくなってしまって、まだ私は短歌に触れられる状態ではないんだなと再認識した。まあ「短歌」以外もだいぶ疎外感を煽られる切り口の本で、だから刊行されても手にとるつもりはなかったんだけど、やっぱりnot for meだったなあとしみじみ思う。激しくnot for meなんだけど、外からは「あなたはこういうの好きでしょう」と言われがちな領域があって、その領域に属するものこそが最も苦手なのだが、まさにそこの本棚にある本だった。

このニュースで会見している国連人権理事会・作業部会のイェオファントン氏が、わかりやすい化粧をしない姿で堂々と会見していたことになんだか励まされてしまった。
多くの人の目に晒されるオフィシャルな場に出てるときには化粧をすることが「マナー」という刷り込みが、私にも強くなされていたんだな、と思う。したくなければしなくてもいいのだ。
www3.nhk.or.jp/news/html/20230

今夜も作文しなければ…と思いつつあんまり進まず、BGMのつもりで流している楽曲をえんえん聴いているうちに時間が経ってしまった。
経験上こういうときに聴いてる曲をプレイしてるシンガーやミュージシャンのことって、簡単に好きになっちゃうんだよな…

で、今夜は浦井健治さんの歌をえんえん聴いてしまって、大丈夫かな…(何がだ…)となっている…ずっと飽きずに聴いていられるんだけど、どこにハマっているんだろう?やっぱり声かな?

あと私は「どうもこの人を好きかもしれん」の時期に「えっこの人のこのステージ、その気になったら観られたじゃん!なぜスルーしたんだ私のバカ!!」っていう後悔を必ずするんだけど、浦井さんが『ヘンリー六世』主演してたことを知って「えっリアルタイムの公演はさすがに無理だったけど、上映会は知ってたじゃん、なんで観に行かなかったの?!」になりました(上演時間の長さに怯んだからです)ヘンリー六世とか絶対いいに決まってるんだが〜〜〜観たすぎたよ〜〜〜(泣)
明日海さんコンサートの浦井さんゲスト回もチケット取れなかったし、せめて秋の『尺には尺を』『終わりよければすべてよし』はちゃんとチケット取ろう…

本が読めない32歳が初めて電子書籍を読む日
omocoro.jp/kiji/399155

太宰治や芥川龍之介の回もそうだったけど、みくのしんさんとかまどさんがまじで一文ずつていねいに噛み砕いて味わっていくので、一文一文に使われている技術のすごさがよくわかって勉強になる。あと、人は何に引っ掛かって「本を読めない」のか、というのがうっすらわかってくる気もしている。ほんとうに羨ましい豊かな読書体験だけど、読書に慣れてしまった人間にはやろうと思ってもできないよな〜といつも思う。

作文しなきゃ…と思ってPCを起動して、しばらくぼうっとYouTubeでお気に入りのMVを見ていた。作文期間にはたいていこの、ぼんやりMVを眺めたり昔のラジオの音声を聴いたり、という時間をかなり多くとっている気がする。こんなことをしてる場合じゃないのにまた怠けてしまって、ほんとうに意志が弱い…と自分を責めてばかりいたけど、最近は自分のチューニングを合わせるために必要な行いであり、時間なのではないかと思うようになった。会社に行って帰って、ごはんを食べてお風呂に入って歯を磨いて家族と話をして、という日常の生活から、作文するための脳に切り替え、作品に入っていくにはPCを立ち上げてその前に座るだけではダメなんだと思う。書くためには、実際に手を動かしている時間よりはるかにたくさんの時間とエネルギーが必要だ。
…と自分に言い聞かせて、進みが悪くてもあまり落ち込まないようにしている。

今日は通勤の電車のなかで久しぶりに『INTENSE/MELLOW』のMELLOWサイドを聴いていた。ものすごく良かった。今週末のTourbillonのライヴを見送った時点で、そのあたりへの興味は私の中でもう完全に死んだのかも…と思っていたけど、INORANの楽曲を良いと思う感性は死んでなかったみたいだ。

最近は、生で音楽を聴く機会といえば宝塚歌劇かミュージカル系のコンサートなんだけど、どんなに歌がうまいひとが歌う名曲を聴いても摂取できない栄養が、私がずっと好きで聴いてきた音楽にはあった。
だからこの数年はずっと栄養失調なんだと思う。ライヴは心身の健康にすごくよかったと、行かなくなって感じる。

「Your light is blinding」「no options」そして「人魚」と聴いているうちに、感傷で泣きそうになってしまった。エモーショナルが過ぎてたまらない気持ちになってでも何も言葉にならなくて泣きそう、みたいに揺さぶられたのも久しぶりだった。こういう感情を集めて小説を書いていたのかも、と思ったりした。

ツイッターはもはや5ちゃんねると変わらない場、というの、私もそうだと思うが、5ちゃんねるはスレッドのテーマ以外の話題を出すなというマナーがけっこう働いているので、著名なフェミニズムの研究者から「純粋にアカデミックな疑問」という体で出されるトランスフォビックな発言にダメージを受ける、みたいなことはあんまりない気がするな。もちろん場が安全なわけではないけど、暴言扱いされる暴言しかないというか。そういう意味ではツイッターのほうが怖い。私はもう、「女性スペースの確保」にかこつけてなされるトランスヘイトをほんとうに見たくないので。

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