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句読点のない読みにくいものを作家である私が読みやすいように整えてあげただけなのだから、それは改変でも盗用でもない、という態度はまさに宗教・信仰を未開・野蛮・反知性などとみなし、それらを啓蒙する我々こそ進んでいて正しいのだという植民地主義的発想なのではないか。あるいは、そのような軽視をしながらも自らの文化とは異なるものを魅力的としてその上っ面だけを利用するのは、オリエンタリズム的な振る舞いとも言える。

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マイノリティの言うことなどあてにできない、嘘っぱちだ、という感覚とそれをもとにした言動をまさに「差別」と言うはずなのだが。

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このnoteのリンクが記載されたツイートを引用してイベントの宣伝をしてるアカウントもあるし、いろいろと呆れてしまう。宗教信仰者の言うことなどあてにできない、嘘っぱちだ、という感覚が前提にあるんでしょうね。

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祝詞に句読点を勝手に付け足したことなどたいした改変ではない、と考えていること自体が祝詞提供者の意志と信仰への軽視であり、かつ綿密な話し合いがなされずに最終的な使用許可を取らずに刊行したことの証になっているのだけど、このnoteは筑摩書房も了承しているのだろうか。

私が大学生になってギターを始めて2ヶ月くらいで人生初のライブでやったのはoasisでしたね。同期のボーカルが大好きだったから。1曲目は「Rock 'N Roll Star」。当時はよくわからなかったけど、この選曲はわかるひとにはわかるやつってことですよね。いまもようわからんけど。

R sekiguchi さんがブースト

日銭を稼ぐ業務委託が終わらねえ!!

故意に差別を繰り返す者らと同じ土俵に乗ってはいけない、とはよく言われることだけど、その土俵はあくまでもかれらが「(差別をするために)設定した土俵」のことであって、我々すべてが問答無用で乗ることになる〈THE土俵〉みたいなもの(=我々はみな差別や加害をやらかす可能性があること)は否定できないし、ゆえに「我々反差別を表明する者らはそんな下劣な反知性的な土俵には乗っていないのだ」というような態度は取れないはず。

でもそう思いたくなる。自らの差別・加害可能性を認識し続けること、その可能性を減らすために学び続けることは、とても苦しいことだから。だからこそ、我々がすべきことは「誰のほうが正しいか=差別をしていないか/誰のほうが悪か=差別をしているか」というような競い合いではなく、我々みなが共通して持っている差別・加害の可能性をいかにして減らしていくかを考え実践する協働作業なのだと思う。当然そこには批判がある。でもそれは存在の否定でもないし、恒久的な悪認定でもない。批判は励ましであり、励ましは批判でもある。そのような環境を広げていかねばならないのではないか。

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私が本屋lighthouseのウェブメディアで宗教差別に関する連載をこぼねさんに依頼したのは、私が宗教や信仰に精通しているからではなく、むしろいわゆる「無宗教」を自認していて宗教や信仰に関してわからないことが多すぎる、これ以上無自覚な差別・加害を続けるのはまずい、と思ったから。

差別に反対することを表明するのは、自らが差別をしないことの表明や証明ではなく、どれだけ知識や経験を得ようとも気をつけていようともやらかしてしまう差別や加害の可能性・回数を少しでも減らすために、学び続けることを意味しているのではないか。

だからこそ、反差別を表明している者としていない者との間に境界線を引き、前者を本質的に善/後者を本質的に悪とすることも、私はしたくない。我々はみな同等に、差別や加害をやらかす可能性を持つ存在である、そう認識して行動したいと思っている。いまはもう、故意に差別を繰り返す者ですら「他者」だとは思えない。私はそうなる可能性を持っているし、学び続ける必要があるという条件は同じなのだから。

ようは「ただの素材」としか考えてないからこういう酷い消費の仕方をしてしまう。己が紡ぎたいストーリーのために、素材をいかようにも調理する自由が創作者には与えられているが、その自由は常に暴力を内包している。

存在そのものが悪であるならば無許可で素材にしていい、素材としてどのように調理してもいい、そのように素材=他者を捉えているのなら、当然作品は暴力性を伴うものになる。いや、どんなに丁寧に素材を扱ったとしても暴力性は生じてしまうのだから、それが批判されることを受け入れるのは創作者の責任なのではないか。

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たとえば「イスラム教の礼拝に関する描写を作中の重要要素として使いたい」と言ってイスラム教徒に協力を仰ぎ、しかし実際の作中描写は教徒として容認はできない改変がされており、かつその承諾もなしに気がついたら作品が公開されている、しかもその礼拝の場面で救いを求める作中人物はことあるごとに己を無神論者だと言っているし、なんならそのほか作中の描写でもイスラムフォビックなものが散見される、なんて事態が生じたとして、それをどう擁護できるというのか。

これが擁護できてしまうのなら、その理屈とはいったいなんなのか。「宗教=常に悪」「だからどんなふうに扱ってもかまいやしない」ということなのだろうか。あるいはイスラム教など大きな宗教であれば問題となるが、いわゆる「新興宗教」であれば問題にはならず、どんな扱いをしてもいいと感じてしまうのだろうか。

己の権力性に無自覚だということは、己を信じてくれている者、あるいは信じてしまっている者が存在するということについても無自覚であるということになる。「あのひとの言うことなら間違いない(詳しくは知らないけど)」が成立してしまう関係性の怖さ。己を信じてくれている/しまっている者を、己のしでかした間違いや加害に巻き込んでしまう可能性を、常に考える必要がある。

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あまりにもめちゃくちゃなことを言っていても、発言主が著名であるとか友人であるとかそういう理由でその破綻を見逃してしまうことはよくあり、そういう権力性のある立場に自らがなってしまっていることへの自覚がないことの怖さを思う。当然、本屋lighthouseにもその「立場」がもたらされていて、常に己に突き刺すべき言葉なのだけども。

あと、表立ってなにかをすべきではない(と判断した)ことも当然あるし、見える場所であらゆることをやらねばならないとされてしまうと、結果としてだれも救われないことになってしまう事柄もある。そのあたり、SNS社会は相性が悪いと思う。ひとりごとすら見えていることが前提の社会だから。

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その観点からも、公私の区別がつけてもらえない(=即座の反応がないと批判されるから休めない)的な状況はよろしくなく、なにもしない/できないでいることを赦してもらうこと、赦してもらえているという感覚を覚えることは重要なのだと思う。

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差別や加害を意図的に繰り返す者らを他者、あるいは異物、あるいは理解不能な存在として認識してはならない。正義を追求することは常に矛盾(=正義を追求しているにもかかわらず不正をしでかすこと)とのたたかいであり、その矛盾から目を背けてはならない。逆に言えば、矛盾していることに対する「赦し」がなければやっていけない。耐えられない。

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正義を求めることは必要だし間違っていないが、その際にどうしても付随してしまう処罰欲求、そしてそれを放置すると生じてしまう無自覚な加害欲求を制御しないでいると、その正義は「暴走している」と言われても反論ができないものになる。

差別や加害はその者が本質的に悪人だからとか、知性がないからとか、そういう理由から生じるわけではなく(そういう場合ももちろんあるが)、基本的にはSOSの発露なのだ、適切かつ十分なケアがなされないままでいるから生じるものなのだ、という認識のうえで正義を追求していかないと、いつのまにか処罰欲求と加害欲求にのみこまれることになる。

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我々のだれもが失敗や加害と無縁でいられない以上、無謬の書き手、無謬の本など存在しない。書かれた当時には常識だった、いまとなっては差別となるものも本にはたくさんあるし、書き手にもそのような「変更不能な過去」はある。それらすべてを精査し、なにか瑕疵が見つかれば排除しろ、しないのであればそれは不正への加担だ、ということを常に要求されるのは端的に言って「無理」だし、そういう要求をされているように感じてしまう精神状態に定期的になってしまうのを私のせいにされても「無理」だし、そのドツボにはまって発信をやめた本屋(あるいはその気配を感じて最初から発信をしないことを選んだ本屋)も確実に存在している。

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各種の「(推測による)断定」は個々の権利であって私にはそれを規制することはできないのだけど、特に本屋の場合「あいつと関わっている(から敵だ)」的な判断をされる可能性、あるいは頻度が比較的多くなってしまう。なぜなら本を扱っているから。そして我々はだれひとりとして失敗や加害とは無関係ではいられないから。

(ある特定の界隈で起きた)事情を知らない可能性とか、そういうものは考慮されずに敵認定される場合がどうしても生じてしまう(もちろん自衛のためにその断定をする権利は誰にでもある)。そういう体験を一度でもすると、実際にはそんな断定・断罪をされていなくても、その可能性に怯えることになる。なにか事件が起きたあとに売上が下がったりするとなおさら。

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