確かに言われて見れば、今度の岩波講座「社会学」第4巻、「公害」という言葉が全く目次に登場しない。多分文章にも登場しないだろう。
東電福島原発を扱う論文が三つあり、どれ一つとして国策として、東電と政府(経産省)がしゃにむに原発稼働を進めてきたことを批判的に分析する論文がない、となると社会学アカデミアとしてはいかがなものだろうか?
東大理論社会学に関しては、私は橋爪大三郎以降、解体の一途を辿ったと思っている。
それでも宮台真司は「水俣」の例を挙げ今年の原発汚染水を批判していた。同じハビトゥスの弟の東浩紀になると、完全に東電と経産省の「犬」になったわけだが。
まさかとは思うが、今回の講座社会学、原発DXに賛成の立場なのだろうか?
さすがに全国にオーソドックスな社会学者はあまたおり、その人たちの今回の講座へのコメントを聞きたいものである。
しかし、「社会心理学」と「広報」を担当する人が責任編集とは、また挑戦的な出版であることよ。
第4巻で扱われている「環境」問題について、前のバージョンの講座ものではどう扱われているのか、「岩波講座 現代社会学」シリーズを見てみました。
『25 環境と生態系の社会学』(1996年)が似た趣旨の巻だと思うのですが、目次を見てあまりの違いに驚きました。
1 環境の社会学の扉に 見田 宗介
2 環境問題と現代社会 宮本 憲一
3 生活のなかの公害と社会 市川 定夫
4 核の社会学 高木 仁三郎
5 エビの社会学 宮内 泰介
6 アメリカ環境運動の経験 高田 昭彦
7 日本の環境運動の経験 飯島 伸子
8 エコロジー批判と反批判 丸山 真人
9 適正技術・代替社会 田中 直
宮本憲一氏、高木仁三郎氏(原子力資料情報室)など、企業や政府を独立の立場から批判する方たちの論考がしっかり載っています。
なによりも「公害」という言葉がちゃんと使われています。
「環境」「エコ」という言葉が頻繁に使われ、「エコな暮らしをしよう」みたいな言い方で問題が個人化されるようになってから、「公害」という言葉をよく使っていたときには見えていた企業や政府の責任がどんどん見えなくされているような気がしています。
「公害」という言葉やその言葉が持つ「姿勢」を、私たちは決して捨て去ってはいけないと思います。 [参照]
「講座社会学」の第4巻の責任編集の関谷直也という人、慶応SFCから情報学環へという「お決まり」のコース、そして基本、政府・東電側の委員を歴任している。
本人の担当論文名も、そのものずばり「「風評」の社会学」である。
関谷さん、社会心理学・防災、広報を専門とするらしい。いやはや。
ところで、この間「環境・災害・技術」をテーマとするが、現在、世界を燃えさせている on fire、地球生態系の危機や工業文明、資本主義と生態系を扱う論文が1本も見当たらないのはどういう訳だろう。
さらに言えば、日本の高度経済成長によってもたらされた各種公害の歴史と現在についても扱わない方針のようだ。
水俣病などの公害の際も、政府・通産省側はチッソの産業排水と水俣病の「病理学的因果関係は証明されていない」として、延々と対策を(意図的に)放棄した。
熊本大学医学部の原田正純さんは、この政府と医学部の主張に異を唱え、大学に昇任を棒に振ったが、それは原田さんの「名誉」である。
ちなみに公害と企業城下町、共に環境経済学者の宮本憲一さんの命名で、日本語固有。海外では「産業汚染」になる。
宮本さんの造語は政府と大企業の構造的癒着という日本的現実を照射する概念であるが、あまりにも的確なために普通名詞になった。
おやおや、今日も新聞はAIと脳科学に関する「怪しい」特集を二つも組んでいる。
一つは、今はやりの「万能AI」。2045年に「シンギュラリティー」が訪れる、として「人類脅かす可能性も」とリード文。
「シンギュラリティー」噺、ここまで来ると「ノストラダムスの大予言」に似てきたなー。
45年になったら、別の御伽噺が紡がれるのだろう。
しかし「人類の存続」が地球生態系を含めて、今、現に危機に晒されているのは事実である。
ただ、その原因はAIの進化などではなく、抽象的には「人類の愚かさ」、具体的には「無限の成長」を前提とした近代世界システムの限界である。
近代世界システムとは資本主義世界経済とインターステイトシステムの複合メカニズムであり、それは現在、世界中での不平等の拡大、排外主義そして戦争、として現れている。日本の状況もこの文脈において捉える必要がある。
別のページでは「脳科学」で「認知症」、「うつ」、「パーキンソン」を克服として小型ザルを使った計画に来年3億の予算を計上とぶち上げている。
これは人為的にはサルをパーキンソンやうつ、認知症にさせる「倫理性」の問題があるだけでなく、前提が「デジタル脳」の開発と言っている時点で、「AIによる不老不死」噺と変わらない。やれやれ。
しかし、「うつ」を脳科学によって克服、と銘打っているが、現在のSSRIやSNRIにしてもセロトニンやノルアドレナリンそのものを増やせる訳ではない。「脳」への「再取り込み」をブロック(遅らせる)ことで、血中濃度を上げるだけである。
であるから、「うつDepression」の器質的原因=原理的にセロトニンやノルアドレナリンを減少させるを除去できるわけではない。
つまり「うつ」になる環境におかれていれば、いくらSSRIやSNRIを服用し続けても、根本治療にはならない。
勿論、重度の「鬱」には薬物療法が効果的なのは事実。実際、戦争中などはパイロットや若い特高兵士に覚醒剤を与えて出撃させていた。
戦時に蓄えられていた覚醒剤が戦後市場に横流しされたのが「ヒロポン」。坂口安吾など戦後派の作家が服用していたのでも有名である。
「疲労」が「ポン」ととれるので、「ヒロポン」と命名された。由来と知った時は少し拍子抜けしたけれども。
サルトルなども『弁証法的理性批判』に取り組む際、覚醒剤を嚙み砕きながら、あの膨大な書物を書き続けたと言う。
しかし、後期の主著としてはやはり『家の馬鹿息子』が決定的に重要。おそらく、近いうちにこの書物をベースにして19世紀言説史は書き換えられるだろう。
「どわんご」に続いて、笹川財団から、内容証明つきの「脅迫状」の脅しが届いてから、2週間ほど過ぎた。
しかし私への法的恫喝は別にして、2025年4月Z大学開学に間に合わせるためには、いくら去年法改正はしてあるとは言え、今年10月、つまりあと1月余りで申請することが必要になる。
ところで、現在新学部を申請するだけでも膨大な書類が必要になる。一度それを見せてもらったことがあるが、広辞苑4冊分ぐらいの厚さだったように記憶している。
その際の責任者の人に拠れば、専属の事務職員が4人は必要、とのこと(学部の場合)。
ZEN大学の場合、まだ存在していないわけだから、専属の職員も教員もいない。誰がそれを担当するのか、と不思議がっていた。
確かに東浩紀などが、そのような膨大な書類仕事がやれる筈もない(私も無理だが)。たぶん、私への「脅迫状」の送り主、「笹川財団ドワンゴ学園準備委員会」が書類づくりを行うのだろう。
ところで、どうやら「どわんご」さん、私以外の方にも「法的恫喝」を加えているらしい。
さても不思議。自分たちが発表した計画に対して「論評」が出るのは当然である。
気に食わない「論評」を書いた人に「恫喝」を加えて回るとは?
これ、大学を創設しようとする団体がやることか?
ポストモダニズム@Japanを凝縮し、東電・自民党擁護から一気に「反憲法学」宣言、言論封殺のファシストになり果てた東浩紀、やはり一度にポンと出てきたわけでもない。
基本的には浅田・柄谷編集の『批評空間』から生み出された。また東をロール・モデルとして駒場表象周辺の自称「神々」たちのバイブルも『批評空間』だった。
柄谷さんはどうも途中から東に批判的になったらしく、パリで会った時、「どうしてあんな適当な本(『存在論的・郵便的』を出したのか?」と聞いた時には、「いや、あれは浅田が書いたの!」と答えた。私は「それだと余計問題ですね」。
この時私は浅田のレベルがこの程度なのか、と批判したつもりだったが、リライトの程度によっては、どちらが著者なのか、という問題も発生し得るのだろう。ただし、著者が年配の知り合い・友人に初稿を見てもらい、リライトするのは当然で、私はあくまであの本の著者は東浩紀だと思っている。
問題は、浅田がそこまでしてプロデュースした東が「ネトウヨ」モンスターからファシストへと成長を遂げたこと。
やはり浅田彰にはここらでコメントが必要だろう。
柄谷さんはちょうど「朝日」で自伝的回顧をしているらしいので、そこで。ただ「ポストモダン批判をはじめたのは俺」はやめてほしいな。
しかし、30年以上前、駒場の図書館前で、東浩紀と話していた際、所謂「フランス現代思想」を政治理論に繋ぐ際、アレント(とベンヤミン)はちょうどよい「媒介」になる、と教えてあげた際は、「なるほど!」と感心していたが、結局これもルソー噺と同じく、よく読みもせず、なにやらアレントについて「好き勝手」なことを新著で書いているらしい。
アレントの方は、ルソーと違って東浩紀の方は「覚えていない」かもしれないが、いずれにせよ、デリダやドゥルーズを「政治」に繋ぐのは東浩紀には無理。
フーコーについては東はほとんど「読んでいない」ように見えたけれども。
ただ、補足しておくと、私は東浩紀と「友人」だったことはない。大学院で高橋哲哉さんのデリダ購読のゼミで同席した折に、共通の知人に誘われて数回お付き合いしただけ。
あの頃は、東京の無教養な「オタク」だとは思ったが、現在のような邪悪な「ファシスト」になり果てるとは予想しなかった。
というよりも「邪悪さ」の片鱗は感じたけれども、世間がこんな幼稚な男を相手にするとは「予期しかった」が正確。
であるから、東浩紀が「問題外の外」であることは端からわかっていたことであって、むしろ問題は彼をプロデュースし、ここまで増長させた文化産業の構造の方にある、というべきだろう。
東浩紀の「ゲンロン」と「恫喝」のスタイル
さて、恫喝の口実は「かわんご」氏への「名誉棄損」としているが、削除を要求する投稿は二つとも、ZEN大学設立にあたり、「不都合な」な点を指摘したもの。
法技術的にどうなのかは法曹実務経験がない私にはわからないものの、「常識」では、Z組織のコア関係者は、この「恫喝」行為を知った上でのこと、と考えるのが妥当だろう。
とくに動画会見に合わせて、この案件に「機密事項」として関与していたことを発信し、また株式会社「ゲンロン」を動員して、教務部長となる予定の東浩紀は、まず「知っていた」と考えられる。
さて、ここに東浩紀氏にお伺いしたいのだが、貴方の考える「ゲンロン」とは「都合の悪い」発言に対して「スラップ訴訟」の恫喝をかけて「黙らせる」スタイルなのか?
大学とは、双方かなり批判的なやりとりを行うが、「法的」恫喝を加える場ではない。
しかし「ゲンロン」がジャーナリズムだとしても、法的恫喝は、「言論の死」を意味するのではないのか?
そこのところをとくと考えて、得意のSNSで発信する責務があるとはお考えになりませんか?
この点は、「スラップ訴訟」恫喝を行う組織を「大学」として「認可申請」を「受け付ける」立場の文科省にもとくと考えてもらいたい。
「「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルに語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。」(斎藤環『文脈病』,p.394)
下位のレヴェルをそっくり「一網打尽」にしてしまうということ
本来一体であったものが視点という特権的な立ち位置、働きかけの主体という能動性を獲得してしまい、自分の中で生起する世界にただ驚きをもって眺めるといった完全な受動性の内に留まることは出来ないということであろう。
どうして主体という視点を獲得するだけで客体に対する優位を主張できるのか、正にその態度が傲慢であり、思い上がりなのである。
「存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。
「そのように問うとき、すでにあの始原の調和は破れ、問う者はもはや原始の出来事のうちに包み込まれていることはできない。こうして<叡知>との<調和>がそれへの<欲求>、それへの<愛>に変わり、<叡知を愛すること>が<愛知=哲学>に変わってしまう。‥ハイデガーは、このプラトンとアリストテレスによる<哲学>の樹立を「偉大なはじまりの終焉」と見る。」(木田元『わたしの哲学入門』,p.191)
それを対象化して見るとき、それに対する構え、或いは特別な定点を占めることが出来る、視点としての能動性を有する主体が生まれてしまうからである。この主体こそ自然を操作し支配する者、ランボーが否定する近代の宿痾としての主観にほかならない。
死ぬ間際のただの年金じじいだよ(Asyl)