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朝に文化放送をたまたま聞いてたら、ちょっとびっくりするくらい差別どストレートなことをパーソナリティが話していて、信じられない思いで調べてみると、京都大学で教鞭を執る工学博士の方だった。福岡市であった、賃貸物件にLGBT不可としてた事件へのコメントだった。差別発言にもそれなりの理屈が一応存在していて、「悪」の質にもよく考えられたものと幼稚なものがあるが、「女性専用住居」があるのだったら「LGBT不可住居」があってもおかしくない、という非常に幼稚な理屈だった。

LGBTが男性、女性などの性的カテゴリとまったくフラットに取り扱いうるとして、マイノリティの権利を小さく見積もろうとするのは典型的で、かつ最も稚拙な差別の論拠だ。直接には目に見えない権力勾配を、まるで存在しないものとすれば、あらゆる差別が正当化される。どうも人間社会をとても単純に捉えておられるようだ。

後々番組表を見ていると、旧Twitterで偏狭な保守論壇を構えているかたがたがコメンテーターとなっていた。フジサンケイグループだから「色」が出るのは当然としても、政治的主張の違いといったレベルを超えたまずい話を公共の電波に載せるべきではない。ラジオも社会の公器だろうに。
joqr.co.jp/qr/program/tera/

はてな匿名ダイアリーの日記を読んで、不思議な感慨を覚えた。
「猫が同時に死んだ」
anond.hatelabo.jp/202410011828

ネコという動物は不思議と人の気持ちや機微みたいなものを察するところがある。死期を察して挨拶とまでは思わなかったが、昔飼っていたネコも当時の自分が気づかなかっただけで、何か挨拶めいたものをしてくれていたのかもしれない。

もひとつ、私より10くらい年下のようですが、こちらも。
「人生を救われた」イトーヨーカドー津田沼店の閉店に寄せられた、就職氷河期世代と思われる人のエッセイが、当時の世相とあいまって泣ける【全文起こし】 - Togetter [トゥギャッター]
togetter.com/li/2442288

さて、仕事の続きを。

是々非々でいいのです、きちんと言葉を交わすことを社会に見せて欲しい。与党も野党も、ことばを尽くして欲しい。

そういう意味ではSPAはいい取り合わせの記事を作っていた。

自民党総裁選で注目の石破茂 ×立民・ 野田佳彦が対談で語った「きちんと議論する国会を取り戻す」覚悟
nikkan-spa.jp/2031837

KATO Daikaku さんがブースト

最初の女性首相は、まともな人のためにとっとこうぜ。

ことばを大事にする政治とは、問われたことに誠実に回答することだと思います。意見は違ってもいい、誠実に回答するかどうかがことばを大事にするということ。物証があっても状況証拠があっても「知らない」と言い続ければ、本当になるというのが、安倍政権以来の「政治的事実」の作り方だった。あるいは相手の言うことを全く汲み取ろうとせず、言いたいことだけを言いつのることが、「説明」の仕方だった。どんな問いかけも無視すれば、ことばは力を失います。いったんそういうことばの軽視が容認されれば、社会にことばの軽視が蔓延する。そういう時代を長く体験してきた、と私は思います。

そんな状況が長く続けば、社会は「学習性無力感」に覆われ、問うことの意味自体が無力化されてしまう。そうでなければ、暴力に訴えるしかない。そして現にそれが起こった。これが「ことばの破壊」だと私はずっと思ってきました。

ことばを使うことは、コストを支払うということでもあります。端的に時間とエネルギーを使う。効率化と対極にある概念です。ことばが機能する社会を作るには、どうあっても時間とエネルギーを使わざるを得ない。話が長いことは鬱陶しいことではあるけれど、我々の社会に必要なことでもあると私は思います。

石破さんには頑張ってもらいたい、と思うのです。

自分のリサーチマップをみると、2023年9月から論文の業績がストップしているんですが、学会発表ばかりこのところしていた…。その原稿化が一気に押し寄せてきて、この夏は発表資料3本の原稿化と新規発表+投稿で、一夏に4本も論文書いたみたいになっていますが、大事なのは続けることよな…と思います。

根を詰めすぎてか、一時期、夕方になると耳鳴りがするようになりました。妻には男の更年期障害じゃね?と言われて、まあそういうこともあるか、と。漢方薬でどうにかしのいだけども。

データベース構築は、それはそれで業績にならないわけではないんですが、いわゆるペーパーとは扱いが違うので難しいですね。

生まれて初めてネット詐欺に引っかかった。ネットショッピングで注文後に入金し、品物が届かないので連絡すると、欠品しているので返金する、ついてはSNSにて連絡を取りたいというパターンで、さらに入金させる手口だそうです。自分の場合は、SNS誘導で気づき、返金を諦めました。
city.oita.oita.jp/o042/2023kei

1万円くらいだったので、勉強料だと思うことにします。

怪しいポイントは気づけばいくつかあった。個人商店らしい売主と振込口座が全然違う名前。日本人名だけれど、なぜか返信の引用に中国語が混ざる、など。メールのやりとりが段々粗雑になって行くあたりで、馬脚を現す感じですね。

返金するのにLINEの登録が必要ですなんてあるわけないでしょう。振り込んだ口座は先方に分かるでしょうから、そこに返金してくれればいいだけの話で。

欲しいものは楽天で注文し直して、無事に入手できました。

郭大侠氏の映像はここ。中国のTikTokです。
douyin.com/search/guodaxia9411

Youtubeもわずかに。
youtube.com/watch?v=zkVaAAIZRg

じわじわおかしい、しかし味わい深くもある…最近の中国のショート動画って、「古き良き伝統中国」みたいな演出が多い。田舎暮らしでじいちゃんとばあちゃんが料理作る動画とか、墨を作る動画とか、政策のバックアップをバリバリ感じるテイストなんですが、そんな中に、何かおかしな方向に突出した映像があって、これはそれです。

だって食事のマナーをミスしたら、突然拳法の大技でぶっ飛ばされるというのがオチなんておかしいでしょ…

ほんと面白いのでご関心のかたは是非。

ほんとどうでもいい話なんですけど、私のFacebookに何かの拍子にしょっちゅう流れてくるようになった、中国のTikTokからの転載動画がありまして投稿者を「郭大侠」というんですが…これが見る人が見れば、めっちゃハマる。文革前の中国らしき世界で(おそらく)郭氏がめっちゃ中国拳法の特訓をしてるんですよ。酔拳やってたころのジャッキー・チェンというか、少林寺三十六坊というか、そういう雰囲気で。だいたい師匠がこの郭氏に稽古を付けて、その激しさも妙に味わい深いんですが、稽古の後にだいたい酒を伴う飯を師弟で食うわけでして、それがまずめちゃめちゃ旨そう。

面白いのは大体そこで郭氏が儒教的な礼儀(というか古式ゆかしき作法)に失敗して、師匠から懲罰を食らい、視聴者に教訓を与える…という謎の作り。なんかマナーに失敗すると食事中でも八極拳の外門頂肘みたいなの食らって郭氏が吹っ飛んでオチになる。現代のコンプラにおいて、これはなるのか?いやそういうのの域外にある映像です。

何者か分からないので調べてみたら、マジの酒造四代目で拳法家でデジタルクリエイターらしい。出演者もどう見てもマジモンの拳法家で、郭氏よく体が持つなあと思います。

郭氏のプロフィールを見つけた。
baike.yaotaichi.com/guodaxia94

「推し」の体験学習をしたのがコロナ禍でのNiziU入り口でのK-Popでした。自宅に引きこもってYoutubeばっかり見る薬漬けみたいな1年を送りました。かつて四方田犬彦が言っていた「無時間的な快楽」(うろおぼえ)とはこういうものかと思ったものです。が、ファンダム内部のヒエラルキーやお作法、ホスクラと同じビジネスモデルなどを知るにつけ、サーッと自分の中の波が引いていきました。TwiceもBTSもママムーetc..などは今も気になるアーティストではありますが…

気づけば「虐待を受けている若者が居場所を求めて推しビジネスにはまり 夜職を通じて暗黒面に立ち入って推しビジネスから卒業する」というステレオタイプなストーリーのマンガもちょくちょく出てきて、「推し文化」の立体視もある程度社会に定着してきた=爛熟期に入ったのかなと思うところです。学生達の金のかけ方とか、ほんと常軌を逸してるなと思うくらいです。好きなものを豊かに摂取するんじゃなくて、推しに貢献するとして同じものをたくさん買うなど、文化的消費というのではもはやない…売り上げによってナンバーワンホストを作るビジネスとまったく同じ。

「推しをアイドルにしたい」オーディション番組が生む熱狂と極限状態
asahi.com/articles/ASS8V2JDMS8

私はトップというのは個別政策に卓見がなくてもよくて、具体策を生むような大きなパースペクティブだけ持っておけばいい、という一般的な見方が全てだと思う。個別政策に卓見を持っていてもいいけれどトップの資質とはならないというのは、卑近な例でいえば橋下徹を挙げれば十分だと思う(個別政策が上手くいったかには大きな是非はあるが)し、具体策を生まないアジェンダ倒れのだまくらかしについて言えば実例の枚挙に暇がないというのはあるから、そう簡単な話ではないけれど。

ミュージシャンというのは本質的に人の心を救う人だと私は思います。そういうものを渇望する社会はとても傷ついているのだと思う。ハリス氏が旋風を巻き起こす社会は、つまりそういうことだと思う。自らの心の救い方は、「怒り」と「共感」という真逆の方法がある。どちらも異なる回復の段階においてどちらも有効に機能するようだが、長い目で強い力を持つのは後者だろう。トランプとハリス、好対照だと思います。(2/2)

「インタビュー避け続けたハリス氏 ビヨンセとの共通点 NYTコラム」(有料記事)
asahi.com/articles/ASS8Y2SPJS8

興味深く読んだ。すごくざっくりいうと、ハリス氏がやっているのは、政策提言の類いではなく希望のシンボルになるということであって、少なくとも今それはうまく機能しているということだった。そしてメディアでの見え方の調整も含めて、非常に戦略的なものであると。

戦略といえば当然の戦略でしょう。それはそれとして理解できる。しかしそれが上手いからか、メディアを通じて見える姿はそれは真に誠実なものの考え方、アメリカが善なるものとする価値観を心底信じているかのような振る舞いとして見える。つまり戦略などという小手先のものではないものとして。それはアーティストが持っている職能だと思う。

その意味でビヨンセと同じ戦略を持っているというこのエッセイは興味深かったです。(1/2)

それで兵庫県知事の「指導」です。この言葉はお役人やお役人に忖度する方は大好きですよね。「協議」とは本質的には両者がステージから降りてより良い場所に着地することじゃないですか。「指導」は、する側が自分のステージから降りず、参加者が「指導」を内面化することでしか幸せな着地がない。そういう社会の仕組みに慣れた人は、指導は正当な仕事のフレームワークだし、それに従わなければ仕事をしてないとみなす。

そういう社会でうまくやっていくためには、自分をそのフレームワークにうまく馴致させるのがよい。

とはいえ役人もサラリーマンだから、面従しながら仕事をするのも大人のひとつのやり方でしょう。ところが金太郎飴みたいにどこを切っても外面と内面が一致しているやばい人が時々いる。自分がフレームワークになっちゃっている人です。このところの会見などを見るに「指導」を疑わない方であるようにお見受けする。

たぶん、このまま百条委員会でやりとりしていても、この方はこのまま「信念」を通すのだろうなと思う。ここまでできあがっちゃった人はそう簡単には変われないのではないだろうか。(2/2)

文化庁が国語教育にかんする諸問題について、現場の先生方の「研究協議」することを目的とした国語問題研究協議会に出席させられたことがある。
bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nih

全国から小学校〜大学の教員が集まるイベントだった。全国持ち回りで教育委員会が実施担当を受け持ちする形だったと思う。冒頭に、当該県の長(何の長だったかは忘れた)が、本日は(登壇した文化庁・文科省の人たちに)ご「指導」いただく機会を得ました、本日はご「指導」よろしくお願いします、と発言して驚いたことをよく覚えている。

私自身は常用漢字は目安に過ぎないもので、とめはねなどの○×問題は本質的には意味がないと思っているし、その点では文化庁の方針に異論はないが、建前でも「研究協議」という場で「指導」という言葉を使うあたりに、現場(の長)には強烈な上下関係が内面化されてるんだなと思った。

いちおう形だけのグループワークがあって、協議っぽいことはする。で会場にいた千人以上の参加者の多くが文化庁の方針に異論ありとしていた。これが現場との乖離というやつかーと思って、着地点をどうするのか眺めていたら、形としては結局文化庁は折れなかったと思う。なるほど、これがお役人の世界だと思った。(1/2)

一日に出来る仕事の分量なんてたかが知れてるな。と、思ったより仕事が進まなかったことへの自己弁明。座っているばかりであんまり仕事が進まない時は、何かエネルギー的なものをため込んでいたのだろうと都合良く解釈するコトします。する!

ToDoリストに残ったタスクを見て、うん、明日に回そうと決意。

かつてその文庫なりに存在はしていたけれど、いつしか所在不明となってしまう文献というのがある。盗難や流出という可能性もなくはないにしても、基本的には整理の行き届きなどの問題が大きいのだろうと思う。時に長い時間が経ってひょっこり現れることがあるからだ。面白いものですね。

kokusho.nijl.ac.jp/biblio/3000
この如意輪寺経蔵本『倶舎論音義』は、正宗文庫(ノートルダム清心女子大学内)にあったとされ、長いこと所在が分からなくなっていたものです。これの写本とされる京都大学本が最古とされていたのですが、これでもう一段古いもので研究することが出来るようになりました。

2024年の今月、国文学研究資料館がカラー写真を公開してくれています。ありがたいことです。

菅野カラン『オッドスピン』第3巻を読む。一読して「何だったんだ?よく分からん」という印象を持つ。これは作家が下手なのか、それとも自分が読み切れていないのかと一度立ち止まってみる。一般向けのマンガの文法に則っていないだけかも。

今度は第1巻から再読してみる。やはり面白い。けれどすぐに分かるタイプの面白さではたぶんない。じゃあ読み切れていないほうだなと思って、珍しくもう一度読み直してみると、面白いことは分かるんだけどこれは何なのかということがよく分からない。

考察サイトをいくつか読んでみて、分かったような分からなかったような。

双子の娘が、母親(たぶん毒親)の「所有するという感覚」から脱出するために、地面師になる。書いてしまえばそういう話なんですが、余白の多いタッチといい、表情の乏しさから感じるオフビートさ、それでいて「そういう心の機微も見てみたい」という気持ちをかすっていく描写とか、綜合すると結局よく分からないものになっている。でも面白い。

ここの著者インタビューで、平田オリザの言葉「演劇においては『愛している』という台詞を『愛していない』という意味で使うことができる」を引いて、台詞の距離感に言及している。敢えて言えば、その距離感が気持ちいいのかも。
gendai.media/articles/-/124482

KATO Daikaku さんがブースト

国立国会図書館では23日、帝国議会会議録検索システムで全期間の本文テキストデータが利用できるようになりました。
ndl.go.jp/jp/news/fy2024/24082

議事録を読む際には、以下の資料が参考になるようです。
葦名ふみ「「国会会議録」前史 : 帝国議会 議事録・委員会の会議録・速記録・決議録の成立と展開」(国立国会図書館、レファレンス、63(1)、p.53-83、2013)
ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000

で、今日の当たりは円光寺。お庭がすごく綺麗。寺宝には円山応挙もあって驚きました。が、日本語史研究者としては、伏見の木活字を見ることができたのが眼福でした。

仁和寺は一枚だけ。平日昼時ということもあって、私しかいないという瞬間もあり、静けさを存分に楽しむことが出来ました。

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